美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術
楽しく表すために
カナダやアメリカでは17年ゼミの大出現の年だったようです。もう一種13年ゼミがいるようですから、17年ゼミが出現した後の土中には、13年ゼミの幼虫だけが残り、17年ゼミはすべて成虫に脱皮してしまい一匹もいなくなるのでしょうか。日本には、多種のセミがいて、毎年出現しますから、今夏、成虫として私たちに姿を見せる成虫の、ほぼ6倍の幼虫が土中で夏を過ごしているはずです。そんなことを考えるだけでも楽しくなります。
カブトムシよりもやや遅れて脱皮する日本のアブラゼミは、福島では7月下旬頃から林や街で、その鳴き声が聞かれるようになります。そして、特に、蒸し暑くよく晴れた日、大挙集中して地上に現れ脱皮を始める夜があるのです。それは暗くなってから深夜に及びます。4~5年に一度、仕事が遅くなって大学構内の雑木林の脇を駐車場に向かうときに、人気のない暗がりで、その特別の日に遭遇することがあります。今年の夏は遅かったせいか、その特別の日は、8月の9日でした。2004年の時よりやや数が少ないように感じましたから、翌10日の夜はもっと盛大で感動的だったのかもしれません。ケヤキやサクラの高木から、サツキなどの低木、そして階段の途中や登りやすい講義棟の壁まで、大学構内のいたるところでアブラゼミと思われる幼虫がしっかり足場を決めて脱皮を始めます。そこに出くわすと、いつも同じ現象と思いながらも、懐中電灯とデジカメを取り出し、子どものように観察しながら撮影をしてしまいます。中には、脱皮途中で蟻に襲われ無惨な姿になってしまうセミもいますが、神の造形の不思議は、何度出会っても飽きず、私に驚きと感動をもたらしてくれます。
私たちには、常に楽しい授業、魅力的な教材、そして授業内容を準備する義務が課せられていると言っていいでしょう。他教科に比べ、図工や美術科は楽しさを演出しやすい教科です。新しい材料で子どもの好奇心を引き出したり、不思議な技法で彼らを驚かせたりすることができます。そのような楽しさは、私たちが各単元の初めに凝る導入と同じで、造形的な表現の魅力を伝え、体験的に造形の面白さを味わわせようと演出された図工や美術の授業ならではでしょう。
ところが、セミの観察をしながら、理科的な興味関心とは異なる感動の余韻の中で、子どもたちなら、これを絵に表すだろうかと考えました。常にこれほどの感動が日常生活にあるわけではありませんが、子どもたちを表現に向かわせる動機付けについて、案外私たちは疎かに扱ってきたのではないでしょうか。指導者は、表すための意欲付けを材料や技法に頼りすぎ、それ以外の魅力に表現の動機を求めることが少なくなっているかもしれません。例えば、遠足の後などに思い出の絵を描かせるのは、非日常的な体験による子どもたちの感動が作品に表れることを期待するからでしょう。しかし、現代の子どもたちを思うと、いろいろな表現手段を手に入れ表す方法だけを知っても、豊かな材料や表現機器に恵まれてはいても、結局は、子どもたちが表したいと感じる感性を震わせる体験が不足していると思うのです。造形的に表すことの楽しさとは、非日常的なこととの出会いや身近な環境観察から、自らの好奇心や興味とが相乗して表そうとするエネルギーを引き出すところから導入することが大切なのではないでしょうか。
そして、そういったモノや現象を驚きや好奇の眼をもって子どもたちが受け止めるようになるには、指導者自身がモノや環境を常に観察し、感動を伴って受け止める感性を失わないことが必要なのだと思います。指導者が昆虫に興味があれば昆虫を主題にした表現が多くなるかもしれません。その興味が伝統文化や人間の心理であっても同じ影響が子どもたちに表れるでしょう。ただ、子ども達の興味・関心は、生育暦と共に、いずれ多様に広がるものですから、まずは、指導者自身の価値レベルやセンスを子どもに伝え、抽象的な価値観や無形な文化的価値への興味の有りようを感じさせることが大切なのではないでしょうか。子どもたちは、味わったことや教えられた価値軸を横にスライドさせ、その後の経験をもとに、いずれ自らの価値軸を形成する必要に迫られるでしょうし、またその能力があると思われます。その後の成長過程で独自の体験や刺激に子どもたちが襲われ、多様な学びの中から自分らしい生き方を判断したり、決定したりする必要は避けられないことでしょう。そのために、まず、子どもたちの前に立つ私たちが、私たちなりの感動やセンスを示し、規準となる仮の価値軸を与えることが大切なのだと思います。