美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術
「待つ」ことのできる実力
芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、そして学校は行事の秋。秋はいろいろに言い表されますが、植物も動物も、私たち社会も、秋は実り多き豊かな季節なのでしょう。
まだ残る柿の葉の間で柿の実が、すっかり色づいています。しばらくは紅葉に紛れますが、落葉とともに晩秋の風物詩としてその存在が目立つようになってきます。その柿の実が冬まで残り、熟れた実は、カラスなどについばまれながらも、大半は道路に落ちてしまっているのをドライブ途中で目にします。「もったいない」と思いながら幾人かの人に尋ねてみると、折れやすい柿の木と高齢化がその理由でした。確かに、皮を剥き、ヒモを通して干し柿にする手間も大変です。大量にできた干し柿の消費と現代っ子の食味なども関係しているのかもしれません。
幼い頃の私にとって、実りの秋を象徴するものが「熟れた柿」であったと記憶しています。
また、ヒトの食欲を刺激する色のひとつが柿色だと聞いたことがあります。店先に並ぶ艶やかな柿を見て、秋を感じる方も多いでしょう。その柿の実が教育素材にならないかと考えています。総合的な学習の時間などで、干し柿を作って食べてみるのも子どもたちには意味があることでしょう。現代は、食べたいと思ったものがすぐに入手できる生活環境となっています。忙しい社会人にとっても、私のような単身赴任者にとっても、それは便利でありがたいものです。各家庭で毎日のように聞かれる「チーン」の音がそれを象徴しています。
その一方で、美味しくいただくために、食材にどれほど手間を掛けているかが、子どもたちには見えにくくなっています。美味しさを味わい、食べる人の笑顔をみるまでには時間と労力が費やされているのです。干し柿も食べられるようになるまで2~3週間待たなければなりません。その待つ間に感じることや、美味しくなった干し柿を食べてみる瞬間に「総合学習」があるように思われます。
図工や美術の時間に、艶やかな柿の実と干し柿になった実を時間を隔てて描いてみるのもいいでしょう。柿の木が多い地域の学校から、都市化した学校に干し柿用の実を贈る交流なども可能です。「もったいない」ものを教育素材として活かす教材開発は、これまでもよく行われてきましたから、すでに実践されている学校があるかもしれません。この「待つ」ことをしなくなった時代は、多くの伝承を途切れさせていると感じています。「待つ」ことはイライラを生み、私たちの日常をせっかちにしてしまってはいないでしょうか。
一枚の絵に対しても。
ゴッホ[1853-90年・オランダ]のように1日で絵を完成させ、短命にもかかわらず膨大な作品を残した作家もいますが、岡鹿之助[1898-78年]は晩年、1年間に1~2枚の絵しか描かなかったと聞いています。点描による表現とはいえ、作品はさほど大きくはありませんから、いかにじっくりと1枚の絵と向きあったかが想像できます。
若い頃は誰しもせっかちで、じっくりと絵に向き合うことはできないかもしれません。公募展の出品締切が迫り、やっつけ仕事のように絵を仕上げていた頃を思い出します。上野の美術館で優れた作品を見ながら一枚の絵にどれほどの時間がかけられるかが実力のひとつであると感じたこともありました。そして、絵の枚数を重ねるにつれ、それまでより多くの時間をかけて絵を仕上げるようになっていく自分に気付くこともありました。若さとは飽き易くもあり改革力もあり、旺盛な好奇心が魅力です。ですから、じっくり腰を据えた仕事を要求するだけが最善とは考えませんが、経験とともに「待つ」ことも覚えなくてはなりません。いずれ手の込んだ作業や計画に基づいた緻密な仕事ができる自分を求めるからでしょう。そして、そのような力を蓄えつつある後輩に、私たちは可能性としての魅力を感じます。
創造すること。「待つ」こと
「待つ」ことは、どのようにして身に付いていくのかの説明は簡単ではありません。じっくり取り組めるようになる年齢が、その年にふさわしい絵を描かせるという考えもあるでしょう。しかし、私は絵を描いたり、ものづくりをするような神経や感覚の集中が、その発達を促すと考えています。
つまり、造形的な表現経験が私たちに「待つ」ことの実力をつけていると思うのです。それは、集中して描画するような技術力に成長の本体があるのではなく、観察する細かさや、認識する深さ、そして、構想の到達度および自己期待値の高さ、自己評価の厳しさなど、内面的な成長が「待ち」を支え「技」となっているように思えるのです。常に、よく見ようとすることだけでも忘れないでいようと思っています。