美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術

デザイン教育の意味再考

 先日、中学生の水泳大会に行く機会がありました。セルリアンブルーのプールにレモンイエローのタッチ板がセットされ、色分けされたコースロープや観覧席など、色彩をふんだんに用いたカラフルな屋外プールが会場でした。あいにくの曇り空で全体の印象は、しっとりとしていましたが、晴天の日には青空の下、ひとつひとつの色が輝きを増すことでしょう。

 青色発光ダイオードの発明以来、交差点の信号機も見やすく鮮やかになりつつあります。信号は 色表示の代表といえるでしょう。視認性の速さにおいては、色表示はとても優れています。文字や音声とは比較にならないほど、私たちに瞬時に情報を伝えます。 晴天の虹書棚や台所の整理棚を文字表示から色表示に切り替えてみてください。その効果は絶大です。

 色表示の工夫という点においては、公立学校の環境は遅れていると言わざるを得ないでしょう。スクールカラーを指定している学校では、高明度で清潔感があり、落ち着いた学習環境に合う緑系や青系の色を選んでいるところが多いのではないでしょうか。昨年訪れた県内の中学校では、廊下の壁面を無垢の板材で統一し、視覚的な落ち着きとともに木の香の癒し効果を考えたデザインに出会いました。子どもたちと学校環境について話し合い、優れたアイデアについては、実践したり学校に提案したりする授業を構想してみるのも楽しいでしょう。
 デザイン的に優れた総合病院などでは、入り口の受付から診察を受ける科まで、何本かの色帯で順路を示しているところがあります。受付の案内嬢は「赤コースを辿って行って下さい。」と案内をしてくれます。このような配慮は来訪者への好印象となっています。また、身近な生活においても、TVモニターの画面や新聞折込などの印刷物がとても色鮮やかになった時代です。色を楽しみ、配色を工夫して生活に生かす学習を扱うのは、図工・美術ならではの特色です。

 デザイン(design)は、すっかり日本語になっています。図案や意匠などと訳されるのが一般的です。でも日常会話で私たちがデザインと言うときには、その意味は「装飾」に最も近いのではないでしょうか。筆箱やスニーカー、衣服や乗用車、インテリアやエクステリアに至るまで、私たちはそのデザインを選択や評価の第一基準にしているほどです。
 しかし、その基準を優先させて選択した結果、使い勝手の悪い筆箱であったり、十分に足を保護できないスニーカーであったりしたなら、それらは良いデザインとは評価しないでしょう。私たちを装飾的な魅力で欺き、不適切な材質や機能のものを私たちに買わせている製品という評価になります。そのような商品は、決して少なくないというのが現状かもしれません。
 優れた製品とは、装飾的・機能的・耐久的に、そして安全面でも使用者の立場に立って、デザインされた作品であってほしいものです。

 デザインに用いられる色彩は、私たちにとって、とても情動的な役割を果たします。高彩度の色でデザインされた会場は、水泳大会の雰囲気を盛り上げますし、お祭りを控えて街は色鮮やかに模様替えしデザインされます。また、単純化された図柄や配色による表示は、民族を超えてのコミュニケーションを可能にします。そして、色彩的にも機能的にも優れたデザイン製品は、私たちの生活を豊かにし、おそらく出会うことのない制作者の思いやりと使用者の感動を結び、使用者に永く愛用されることになります。
 つまり、私たちがデザイン教育をする意味というのは、多くの優れたデザイナーを世に送り出すというよりも、むしろ生活者としてデザインの豊かさを享受し、デザインされた製品をしっかりと評価するとともに、優れたデザインを選択できる消費者を世に送り出すことに軸足が置かれるべきではないでしょうか。また、それが良いデザインを残すことでもあり、思いやりあるデザイナーを育てることになるのではないでしょうか。

 図画工作科の目標「表現及び鑑賞の活動を通して,つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て・・・」を、また、美術科の目標「表現及び鑑賞の幅広い活動を通して,美術の創造活動の喜びを味わい美術を愛好する心情を育てるとともに,感性を豊かにし,美術の基礎的能力を伸ばし・・・」を、私は、デザイン教育についてそのように理解しているつもりです。