美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術
私たちが辿る生命線の周囲
近年、地域性やローカリズムの価値が見直されています。私たちは身に付いた地域性を生涯背負ったまま嗜好が決まり、生き方を考え、個性形成が成されているように思います。「森林の思考・砂漠の思考」(鈴木秀夫著 NHKブックス)では、見晴らしのよい大地に生きた欧米人と、見通しの良くない森林に生きた日本人を比較し、その民族的な傾向が分析されています。砂漠的風土では、人々は常に地平線の彼方に夢をはせ探求心をもつが、森林的風土では、生活圏の向こうを見ようとするより、身近を詳細に調べミクロ分析に長けるという興味深い傾向が述べられています。
自然環境は、私たちに生き方を考える上で大きな影響力をもつことだと実感できます。ただ、私たちの育ちの傾向には、地域社会や家庭環境も大きな影響力をもっていることは確かです。うどんのつゆや漬け物などの味覚もその一つでしょう。時間を共にした家族や地域人からの影響が非常に大きいと言えます。学校の教師も子どもの育つ人的環境の一つであると考えれば、望郷の素となる郷土愛が育つ媒体としての存在が浮かび上がってきます。前回の最後に、指導者自身のセンスや価値軸を子どもたちに示すことが必要であると述べたのは、そういった理由からです。
私は以前、故郷はいつも変わることなく存在すると思っていました。確かに、開発が進まず、過疎だけが目立つ私の郷里の自然や景観は、時間が止まったかのようです。でも、故郷を離れて時間を経るとともに、膨大な時間が奪ってゆく知人たちが、私のイメージする故郷の主役たちであったことに気付かされたのはごく最近のことです。幼い頃から馴染んだお祭りに参加したり、四季折々の実りを味わったり、共有する思い出話に花が咲いたりするコミュニケーションに中にこそ、故郷が存在するということを感じるようになりました。300年の時を経て帰郷した浦島太郎も、人とともにある郷里の価値に気付いたに違いありません。玉手箱を開けたのは、けっして不幸を意味しているのではないと思うようになりました。
生涯学習者であろうとする姿勢
豊かに横たわる大地や自然の織りなす壮大な現象に比べれば、「学校の先生」は、小さな存在です。しかし、どちらも子どもたちの成長にはなくてはならない存在であることは確かでしょう。家に閉じこもったり、行動範囲が都市化された環境に限定されたりする傾向の子どもたちには、なおさら温かな郷土環境の存在であることが教師に求められる時代です。歳を重ねても、常にみずみずしい存在として、子どもたちの前に立つ先生であってほしいと願います。
そのみずみずしさを維持する一つの方法は、常に私たちが辿る生命線の周辺に関心をよせ、私たち自身が新たな情報を入手することです。そして、そこから得た情報を子どもたちに感動や価値観、そして知恵として提供する必要があると考えています。つまり、私たちが生涯学習者であろうとする姿勢が大切なのです。自らの表現活動や教材研究はもちろんのこと、趣味を深めたり、旅行をしたり、地域活動に参加したりすることも生涯学習の一つとなるでしょう。そして、そういったことが教師の人間としての側面を子どもたちに感じさせ、学ぶことの意味や豊かな将来の生活を志向させることを促すのだと考えられます。二日ある週休日や夏や冬の長期休暇を有効に活用して、自分ならではの興味価値や時間を費やすセンスを磨き、休暇明けには、みずみずしい先生が教壇に立ち、新鮮な情報を子どもたちに示して欲しいのです。
アケビ
写真のアケビは、秋の空気を味わおうと国道49号線をドライブしているときに見つけたものです。周辺の林の中を覗いてみると、鳥にも食べられずに十分熟れたアケビの実が、採りきれないほど発見できました。多くの子どもは、この実が食べられることすら知らないでしょう。土産に持ち帰ると、カブトムシの幼虫に似た中実を気味悪がる大学生もいたくらいですから…。
アケビ雑学です。福島や新潟で見られる多くのアケビは、写真のように実が大きく皮が肉厚の三つ葉アケビです。私の故郷(紀州)では、実がやや細長く薄皮の五葉アケビであったように記憶しています。そして、熟れて実が半分に割れると、三つ葉アケビよりカブトムシの幼虫が透明だったと思います。私は、そのタネの多い実の甘さを味わうだけでしたが、三つ葉アケビの産地では、肉詰めにしたアケビの皮を天ぷらにして味わうようです。
平成9年度版中学校教科書「美術1-素直な気持で」(日本文教出版)P2に中島千波の『無辺の実』という作品が載っていました。描かれている「ムベの実」は、東北ではあまり目にしません。私の郷里では「丸アケビ」と呼んでいました。アケビより甘みが強かったと記憶しています。