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嗚呼 満蒙開拓団(2008年・日本)

なぜ、この悲劇は起きたのか

画像:嗚呼 満蒙開拓団(2008年・日本)

 1931年満州事変。翌年に、「五族協和」を掲げて、日本人、満州人、漢人、朝鮮人、蒙古人の五つの民族は平等という、満州国が成立する。
 この満州国に、日本の国策、移民として送り込まれたのが満蒙開拓団である。計画では、500万人におよぶ膨大な数だが、じっさいには30万人と少し。映画「嗚呼 満蒙開拓団」(自由工房配給)は、旧満州、内蒙古、華北に入植した移民、開拓団の子ども、現地で生まれた人たちへのインタビューで構成される。

画像:嗚呼 満蒙開拓団(2008年・日本) 戦後60年以上が経過しているのに、中国残留孤児の調査が始まったのは1981年、残留孤児をめぐる国家賠償請求訴訟が起きたのは、2002年のこと。まだ最近の話である。
 監督の羽田澄子さんは、方正(ほうまさ)地区日本人公墓の存在を知る。

 方正は、旧満州北部ハルビン郊外、関東軍の補給地である。終戦直前、ソ連の侵攻で、開拓地を追われた満蒙開拓団の女性、子ども、老人たちが避難したのが、この方正地区である。飢え、病気、自決などで多数の死人が出る、その数は数千名にもなる。
 現地で生き延びて、中国農民の妻となった日本人女性たちが、骨を集め、人民政府に公墓を願う。ときの首相、周恩来がこれを認めて、公墓が建立される。文化大革命期にも公墓は、維持管理される。
 日本は、国策のためにたくさんの日本人を満州に送り、結果、同胞を捨てることになる。中国の人たちは、日本が侵略したにもかかわらず残留した日本人を助け、育て、犠牲になった日本人の墓を作る。
画像:嗚呼 満蒙開拓団(2008年・日本) 羽田さんは、墓参りする残留孤児たちに同行、その証言をカメラに収める。
 羽田さんは、1926年、旧満州の大連生まれ。日本に引き揚げてきたのは戦後3年が経過した1948年である。長く大連にいたため、満州の奥地で起きていたことを知ることもなかった、と言う。

 残留孤児の扱いに、国はそこそこの理解を示してはいるが、過去の悲惨な出来事に対して、国の対応は、やっと最近始まったばかりである。
 映画「嗚呼 満蒙開拓団」は、映画としてのおもしろさは欠けるかもしれないが、多くの証言から、わたしたちが、ことに若い人たちが耳を傾けなければならないことを、多く伝える。
 国がわたしたちに何をしたのか、そして、いまやっと、何をしようとしているか、を。
 また、8月15日がやってくる。

●2009年6月13日(土)より岩波ホールにてロードショー