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北辰斜にさすところ(2007年・日本)

激動の昭和を生きぬいた旧制高校生。
今も熱い男たちの青春の輝き。

画像:北辰斜にさすところ

 昔から旧制高等学校の寮歌が好きである。バンカラで自由な雰囲気へのあこがれだったのかもしれない。自分の出た学校ではないけれど、学生時代には、よくうたったものである。文語調の歌詞になぜか郷愁を感じ、覚え、うたうことでのカタルシスがあったのだろう。
 なかでも、ナンバースクールといわれる一高(現・東京大学)の「嗚呼玉杯に」と、三高(現・京都大学)の「紅萌ゆる」は有名な曲で、よくうたったが、ついでうたったのが旧制第七高等学校造士館(いまの鹿児島大学、以下造士館は略す)の寮歌(正しくは記念祭歌)「北辰斜に」である。
 友人が鹿児島大学に進学したこともあって、「北辰斜に」にはまた別の思い入れがあったのだろう。
 この寮歌「北辰斜に」のはじめの一節をタイトルにした映画「北辰斜にさすところ」(東京テアトル配給)を見た。監督は傑作「草の乱」を撮った神山征二郎。

 はじめにストームが燃え、「北辰斜にさすところ・・・」がうたわれる。
 映画は、現代と戦争のころの七高が回想として描かれる。
 大正15年、七高と熊本の五高との野球対抗戦は、3対2で七高の勝ち。「北辰斜に」をみんなでうたうのだった。
 昭和11年に入学した上田勝弥(三國連太郎)は、日本が戦争に突入するころに、七高の野球部のエースであった。五歳下の弟の勝雄もまた、野球部に在籍していたが、特攻隊で戦死。そのせいもあってか、勝弥は戦後いちども、故郷の人吉や鹿児島には行こうとしなかった。
 平成13年。七高のOBたちが、翌年に控えた野球部創設100周年に開催する記念試合の相談をしている。
 開業医になった勝弥はもう85歳、いまは息子の勝弘(林隆三)に医院を任せている。孫の勝男(林征生)が、甲子園を目指して野球に夢中、勝弥の楽しみでもあった。
 ある日、勝男は練習中にじん帯を損傷、甲子園への夢が途切れようとする。そこに同窓会会報の取材で、七高OBの本田(神山繁)が訪ねてくる。勝弥は、本田と孫の勝男に、かつての七高時代の思い出を、語りはじめる。
 七高に入学した若い勝弥(和田光司)たちに、リーダー格の草野(緒形直人)が檄を飛ばす。「天才的な馬鹿になれ、馬鹿の天才になれ!」と。
 話は現代に戻る。かつて勝弥とバッテリーを組んでいた捕手の西崎(織本順吉)が入院しているとの知らせが届く。大阪まで見舞う勝弥。西崎と勝弥に、七高時代の思い出がよみがえってくる。ここにも戦争の傷あとが残されていた。
 勝弥に、記念試合の案内状が届く。いままで通り、勝弥は欠席の返事を出す。勝弥に戦争中の記憶が去来する。勝弥は、戦場で先輩の草野と再会、死を目前にした草野は、「おいにかまわず、おまんさは生き延びろ」「北辰斜にさすところ・・」
 草野はうたいながら、死んでいったのである。
 記念試合を前にして、勝弥はある決心を迫られることになる。

画像:北辰斜にさすところ 旧制高校に集まるのは、いわば当時のエリートたちである。自由闊達に遊びもするが、勉強も必死にする。公共のものを尊ぶ誇り、品格も合わせ持っていた。ただ、時代は戦争へとすすんでいったのである。
 教育システムとしては、賛否両論ではあるとおもうが、旧制高校の、いまなお残すべき点を見いだすことは、可能とおもう。
 声高に、反戦をうたっている映画ではない。過去の郷愁だけで作られている映画でもない。いきいきとした若者たちの群像が描かれた「北辰斜にさすところ」から、いまわたしたちが感じることは多いはずである。

●12月22日(土)よりシネマスクエアとうきゅうにてお正月ロードショー!
●2008年1月より全国にてロードショー!

(C)「北辰斜にさすところ」製作委員会

「北辰斜(ほくしんななめ)に」とは

 旧制高等学校とは現在の大学にあたる教育機関であり、明治新政府が社会のリーダーを養成する目的で作った学校制度だった。卒業生は帝国大学へ進学できる原則のため、厳しい受験競争によって選別されて、入学がかなうのは同世代の青少年男子の1%にも満たなかったという。
 本作の題名『北辰斜にさすところ』は、映画の舞台となる鹿児島の七高造士館の寮歌に由来している。「北辰」とは北極星のことであり、鹿児島市内からは北天の仰角31.36°に北極星を臨むことができる。日々は流れ、時代は変転しても星の位置は変わらない。