美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術
新学期がスタートしました。
今回は、いつも連載している執筆者に登場していただきました。
教科について思っていることをインタビューしています。美術教育に対する執筆者ならではの視点が伺えます。
左脳人間を、右脳左脳のバランスがとれるように。
――― 先生、子どもたちが美術を学ぶことは、どういうことなのでしょう。
先生 僕もそういうこと考え出すのに初任から10数年かかったんです。
教師は、子どもたちに造形的な表現を課して人間的に成長させていくという面と、子どもたちはそんな意識で勉強しているわけではないから、美術の楽しさをみせながら学習の中に引っ張り込んでいくという面の二本立てで授業をしていると思うのです。
子どもたちに何を教えるかの基準は、「美術をやって何になるんだろう?」っていうところから考えてみる必要があると思います。
絵画、彫刻、デザインをやって、次は陶芸とか、鑑賞はちょっと少ないかなっていう表現技術のジャンル的な踏襲ではなくて。それを、オブ・アート(美術の教育)と、スルー・アート(美術を通しての教育)という考え方で、僕はよく学生に説明するのですけど、美術で人間形成していくのは、最近の話題でいうなら「左脳人間を、右脳と左脳のバランスがとれた人間にする」感性の世界のことなんじゃないかと思います。
発達段階によってずいぶんと違いますが、幼稚園では園の生活の中の半分くらいが造形でいいと思うし、小学校では、いくつか考えられる図画工作の学び中のトップとして、空間認識力の発達が挙げられます。魚の絵をクレヨンで描こうとするとき、描いた線が何に見えるか自分では分かっています。それを隣にいる子どもが「あ!魚だ」って見る。画用紙に線だけで描かれた魚なのに、それを刺激に「ボク、もっと大きな魚をかこう!」と言う。こういうことを獲得し、経験した瞬間というのは、とても素晴らしいですよね。ただ、小学校中学年くらい(10歳前)までは、ほとんど平面的な絵になりますがね。
それが粘土を使うと立体物になるけれども、それでも平面的に正面からつくったりします。人間もペッタンコにつくります。それが、次第に頭の中で3次元的な空間をイメージできるようになる瞬間というのがあるんです。その時に初めて、ものが重なったり、木が倒れ始めたりという展開図のような状況が絵に表れてきます。
美術というのは、手の届かない人の脳の中に感性的な刺激を与えている教科として、最右翼じゃないでしょうか。
また反対に最左翼が数学なのかなとも思います。数学的思考力のような知覚・知性の極に数学という教科があるとしたら、感覚・感性の極に美術があるような気がします。
そういう左右のバランスが取れたサンドイッチの中に子どもたちを挟んで、少なくとも義務教育の間に育てていくというのが非常に大事だと思っています。
――― 幼・小・中にわたる系統的な一本の軸でみると。
先生 例えば、幼稚園の子に「モナリザ」を見せて欲しいし、できることならシスティーナ礼拝堂の中に立たせてほしいし、そうすると子どもは、「ふーん」と見渡しますよね、きっと。そして、その子がその印象や影響を1%でも残したまま、15歳くらいまで育っていくという「ふくらみ」が大事だと思うのです。
教育って「幼児にこんなのを見せても分からないだろう」とか、「もう大人になってこんな勉強をしたって、意味がないよ」っていうような、直後に有効な効率性だけで教育をやってしまったら、大失敗すると思います。
担任がどんなにその子のことを思っていても、実際には小学校では2年間、中学校では1年間しかその子を見てやれない。でも、「私がいなくなった後に、あなたは私が手渡したものを大きく膨らませなさいよ」って送り出すのです。そういう中で名画を見せるとか、いい音楽を聴かせるとか、私はこれが美味しいって感じるんだよ」って、ものを味わわせるとか、その時点では子どもは全く分からなくても、物心ついてくる中学校の後半くらいからの価値形成なり、あるいは自分の生き方を選択していくなりの糧になるだろうと思うのです。
実のところ、図画工作や美術の中でそういくことをしているのですが、「教えているのに出来ていないじゃないか」と教育効果を即評価されてしまい、「10年待ってください」と、教師も子どもも言えない時代になってしまいましたね。
――― 教育の面でも、結果を求めすぎている時代と?
先生 もっと大きな意味では、人類の生きる目的というのはアートなんだって、私たちが気付くときがくると思うのですが、今の日本の教育においては、教科が消される可能性すらありますね。
「美術をやってこんなによかった」と実感している方々は少ない。
――― 数学と美術を左右のバランスに例えておりましたが、もう少し聞かせてください。
先生 いまの時代は、「主題意識」の教育が欠けているなと。例えば、国語の作文の課題に「思い出」とか「将来なりたいもの」とかがあるように、子ども達自身の考えていることを引っ張り出すような学習課題が減っている気がします。ほとんどの他の教科では無くなっているのではないですか。
図画工作や美術は、子どもの主体的な「主題性」を引き出す教科なのです。
他の教科は、「何を教えるために、今、何を課しているか」という点では非常に明確なんですよ。到達目標があって、「あなたは80%、君は90%まで分かった」って評価するんです。
しかし、美術は、到達度を設けないで、スタートラインくらいを示すだけのこともあれば、めざす方向も距離も好きな方向に行きなさいよという授業もあります。子どもに差が生じても否定するのではなく、自信なさげな子どもに「とんでもない。あなたのような方向に頑張った生徒は初めてだよ」と言って個性を評価してやれる。「あなたのような方向に進もうとした発想はすごいよ」って褒めてやれる教科性をもっています。幼小とか小中の連携以前に、特に中学校が果たさなければならない教科特性がある気がしています。
よく中学生に「私は君たちに期待する。君たちも自らに期待しなさい。自分なりのビジョン・主題意識をもって生きなさい」というようなことを話すのです。主体的に生き方を考えたり、何のためにそれをするのかというテーマ意識を抱いたりする。そういうものがいま、欠けている気がするので。
――― 美術のおもしろさとは?
先生 私の趣味で例えると美術以外の学習は、「釣り堀で釣りをしているようなもの」かなと。釣り客はどんな魚が何匹釣れるか期待しますが、そこの管理者は、今朝池にどんな魚を何匹入れたかを知っています。数学(算数)も国語も社会も、お釈迦様ほどではないにしろ、先生の手のひらで子どもたちを泳がせている教科だと思います。
ところが美術や図画工作は大海に向かって糸を垂れているような学習です。どんなものが釣れるかは未知数。目の前の小さな魚に夢中になる子もいれば、物足りないからと大きな魚を狙う子もいる。一枚の画用紙から、あるいは粘土の塊から表される作品は、やはりこの教科が大海である必要があるんじゃないでしょうか。
――― 同じ芸術教科である音楽との違い…小中学生くらいから好きな歌手が出てきてですね、いろいろ音楽に目覚める機会は多いと思いますか。美術より先ではないかと。
先生 そうですね。
音楽と美術の圧倒的に違うところは、サブカルチャーを学校の授業に取り込んでいるかどうかなんですよ。僕が初任の頃、音楽の教科書にフォークソングが載っていましたね。「遠い世界に」が載っていたことに驚きました。森山良子さんの歌が載っていたり。それまでは取り入れようとする気配があったんだけれども。音楽の授業を見ていると「合唱にふさわしい曲と、ふさわしくない曲」とか、「学校では扱えない歌」という言い方が残っていますね。音楽のそういう部分にもっと子どもたちの興味を考えて学習の活力にもっていければ、音楽教育というのはもっと盛り上がる気がするんです。
美術の将来について、選択科目とか、教科の統合などという心配があったときに、ある音楽科の研究会長さんに「音楽はどう動いていますか」と聞いたら、「そんなこと知らなかった」っていう…。(前回の学習指導要領改訂時)
ビックリしましたね。「話題になっていませんか」と言っても「美術はそういうことまで気にしているんですか」という答えが返ってきましたよ。
音楽と美術はペアでありながら、そもそも教科意識が違うんだなって感じました。
美術の教科書はマンガ(漫画)を取り入れましたよね。また、現代の子どもたちに必要な学びの質や教育のレベルに内容を改訂していこうという試みが、教科書では随分なされてきています。現代アートの世界もはやくから取り込みましたね。でも、現代アートを中学校の美術でどう展開するかの工夫をしているのは、まだ一部の先生方だけです。十分果たされていない気がします。現代アートは伝統に反抗しているわけではなくて、私たちの課題意識とか主題意識に基づく「美の認識」を現代人が発信しているのだと思います。いまの子どもたちには、なかなか印象派のような発想が出来ないと思います。目の前を歩いている人たちの生き方や価値観の方が学びやすいということもあるはずですから、それをどう美術の中に取り込んでいくかっていうのは、とても大事なことのような気がするのですよ。
後編につづく。(5月号にて)
後編では、日本美術の学習や、美術教育の原点などを語っていただきます。
次号をご期待下さい。