美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術
子どもの作品は分別困難なゴミ?
一昔前に「学校の常識は社会の非常識」という言葉をよく耳にしました。昨今は「学校で優秀な子どもは社会で優秀とは限らない。」という話をよく聞きます。私たち教育に携わる者も「社会で役立たない教育内容」をどこかで思っていたりします。こういった学校と社会の齟齬ともいえる問題は、深く議論もされず、改善の方向も検討されずに現在に至っています。それは、モラトリアムとしての学校生活が理解され、社会生活とは必ずしも連動しなくてよいとの認識があるからでしょうか。保護者や子どもたちの考えに接すると必ずしもそうとは思えません。
以前から、保護者や子どもたちの学力意識が教科成績の優劣にあることを多くの人は否定しないでしょう。私たちもそのことを主な学校評価として家庭に提示し、学習の記録として残してきました。
そして、平成になって、子どもたちにしてみればいきなり「ゆとり教育」が導入され、知識・理解よりも関心・意欲と態度が評価の上位になっていたのです。
その間、評価の観点が変わる以前にでも、教育が「人間形成」を主たる目的とすることや、教科学習を通した学びの多様性について、児童生徒や保護者の認識を深められないままに指導と評価が行われてきたということです。
教科内容の理解に優れることも、学習意欲が高いことも、本来は学校が大切にしてきた学力の両輪です。試験や入試制度に迎合しながらも、そのことへの認識は必ずあったはずなのです。また、よい行為や学習意欲に対しての評価も行われてきたと思います。
私たちは、家庭や地域・職場において、共に生き、働く仲間として、教科学力が優秀である以上に、人間性に優れていることを望むでしょう。それは本人にとっての生き易さや協調性の問題でもあります。また、私たち社会や集団でのそれは人間評価であり、教育への期待でもあるはずです。ただ、そういった教育観や評価観を子どもや保護者へ説明する責任を怠っていたことについては否めないのではないでしょうか。上級学校や就職の試験に対応する学力だけを学習の成果として評価する子どもや保護者がいる責任は制度だけにあるのではないと思います。
現在の小・中学校の保護者は、私の世代が教えた元生徒たちの教育観や学校観で学校や授業を見ているのです。私は大筋でこれまでの教育が間違っていたとは思いません。教育現場でのきめ細かな指導や個に応じた柔軟な対応は、教育現場にいる教員自身も、そう自己評価できるでしょう。教育改革は、これまでの教育の成果を認める形で教育現場が本来の業務に全力投球できるよう進められるべきです。ただ、教育改革を推進する立場にある人を含めて、多くの国民が教員の努力や教育の目的を正当に評価できていない可能性があります。
そして、それが美術教育に至っては、これ程追いつめられた時代がかつてあったかと思われるほど、理解に期待がもてません。授業時数確保、教科の選択制、教科名消失などの危機的状況にあることは誰もが認めるところです。この問題は、これまでの学習指導要領改訂のたびに顕在化・潜在化していた課題です。
図画工作科や美術科の存続と教科理念の確立について、これまで多くの研究大会等で議論されてきました。にもかかわらず、私たちの世代は、重大な反省を迫られています。
美術教育関係者の多くは、創造主義に基づく子どもの主体性と発達に即した内面の表出に重点を置いてきたと言えるでしょう。その美術教育がわかってもらえていないのです。
美術教育による学びの意味を理解しないなら、私たちが児童生徒に課す造形行為から生まれる作品は、保護者を悩ませる「分別困難なゴミ」でしかないでしょう。子どもが表現体験を通して学ぶ教育的意味について、多くの人が理解できる情況が整うのは、そう遠くないと信じたいのですが・・・。