大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

大河ドラマに読む、歴史の闇
天地人、山河燃ゆ、花の生涯…
作品を通して歴史を旅する作法

―人はその道を定めえず、歩みながら、
 足取りを確かめることもできません(エレミヤ書 10章24節)―

歴史によせる眼

 人間の歩みは、より良き明日をみつめて歩んでいるようでいて、誰も己の立ち位置を自覚できないほど不確かなものではないでしょうか。確かに第一歩を踏み出すその時は、己が切り拓こうとする明日を想い描いています。しかしその歩みは、錯誤に満ち、はてしない闇に囚われた日々であることを時と共に気付かされるものです。それだけに人は、その道程を確かなものとすべく、先人の歩みを歴史に探ろうとします。歴史を学ぶのは、江戸時代の儒者荻生徂徠が歴史によせる想いを「見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」(「徂徠先生答問書」)と述べていますように、何千年の昔の事を現在眼に見るごとく己の眼で確かめ、明日を読み取らんがためです。
 まさに歴史は時空を旅する営みにほかなりません。歴史を読むことは、一人の旅人が想像力を駆使して、己の足で時空を歩み行く作業といえます。そこで求められるのは、「飛耳長目」、己が生きている暮らしの場から見たことのない世界の呻きを、耳に翼ができて飛んで行って聞き取り、大昔のことを今見たごとく読み取れる長き目です。ここに歴史といわれる世界への過剰なまでの期待と信仰の原点があります。それ故に歴史は、危機に対処する智慧を説く学問ともいわれ、為政者が身につけるべき必須の学でした。
 民衆は、こうした歴史によせる眼を、学者が造形した学としての歴史ではなく、世間で語り伝えられてきた稗史(はいし)、講談等の世界で養ってきました。稗史、講談等の世界は、学問のかたちで語られる「歴史」以上に、人びとの心を強くとらえて離しません。そこには時代社会によせる民の想いが強く投影されています。その一端はNHK大河ドラマの人気に見ることができます。このドラマには時代人心の想いが託され、視聴者は登場人物に己を重ね明日を生きる糧を求めているのではないでしょうか。

大河ドラマの誕生

 NHK大河ドラマは、1963年4月からの「花の生涯」に始まり、今年2009年が第48作目「天地人」となり、早々に来年2010年の49作目が「龍馬伝」と決定されています。ここには、「天地人」が直江兼続を「愛」と「義」の武将とみなし、「龍馬伝」を三菱財閥を創出した岩崎弥太郎の視線で描こうとの思惑に、昨今の日本と世界を覆う閉塞感へのあるメッセージが読みとれるのではないでしょうか。いわば大河ドラマの世界は、時代人心に寄りそうことで、現在ある世界を「歴史」という「物語」として説き語っているのです。

 「花の生涯」は、船橋聖一の原作をもとに、井伊直弼を主人公に描いた「大型時代劇」です。当初は、「大型歴史ドラマ」とも称され、読売新聞が「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と紹介、1977年3月にNHKがシリーズ15周年企画で「大河ドラマの15年」を放送、ついで翌1978年の「黄金の日々」から大河ドラマとの名称が用いられました。各作品には時代の翳が強く刻印されています。それだけに大河ドラマが時代人心に何を問いかけているかを読みとることで、歴史の闇が読みとれるのではないでしょうか。

「花の生涯」(著:船橋聖一) 「花の生涯」が登場した1963年は、岸信介内閣による1960年の新日米安保条約調印の是非をめぐる全国的規模で展開した安保闘争がもたらした国家の亀裂を修復すべく、池田勇人首相による国民所得倍増をめざす政策が展開し、国民が「中流幻想」の下に歩みはじめる時代です。いわば日本は、米国の軍事力に保護され、「経済大国」への道を突き進むことになります。「花の生涯」は、こうした「上を向いて歩こう」の歌が流れ、「スーダラ節」が歌う無責任さが人びとの心をとらえた明るい明日が想い描けた時代を背に、明治維新後の「国史」に「違勅」、有為の「志士」の圧殺者等々の「汚名」を着せられた大老彦根藩主井伊直弼の生涯を、時代の「花」と語ることで問い直そうとした大型時代劇です。井伊は、大老として1858年に勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印し、反対派を59年の「安政大獄」で強権的に処断し、状況の打開をめざしたものの、60年に桜田門外で水戸藩士らに殺害されました。この「殿様の悪名」は、彦根の人びとのトラウマとしてのこり、明治に誕生した中央政府への距離感ともなっていました。「花の生涯」は、そういう鬱積していた怨念を解き放つものとして、彦根市民に迎えられたのでした。
 ここにある歴史への眼は、新安保条約を国会で強行採決したがために「民主主義」を破壊した「戦犯」岸信介、戦後民主主義に汚点を遺したという「悪名」に対し、「経済大国」日本への道を可能にした首相として問い質す意図が託された作品として「花の生涯」を読みとれます。
 ちなみにこのドラマが始まった1963年の100年前1863年文久3年という年は、3月に将軍家茂が入京、孝明天皇が賀茂神社に行幸して攘夷を祈願したのをうけ、幕府が5月10日を攘夷決行の日とします。ここに長州藩が下関で外国船を砲撃、ついで薩英戦争、天誅組みの乱、8月18日の政変、但馬生野の変と、「攘夷決行」を掲げる勤王倒幕の渦が時代の潮流として奔流していきます。この奔流は明治天皇の下に大日本帝国を誕生せしめます。ついでほぼ50年後1912年明治45年に明治天皇が生涯を閉じています。後に大河ドラマの原点とみなされる「花の生涯」は、1963年という年を基点に100年50年前を時間の旅人として旅をすれば、いままでの歴史とは異様の歴史を読む器になりましょう。

時空の旅人として

 大河ドラマの登場人物は、ドラマが描く時代の人物であるよりも、まさに現代を生きている人間が時代の衣装を身につけているにすぎません。そのため視聴者は、登場人物に己を重ね、その人物の軌跡、心意に一喜一憂しながら明日を夢みています。これも一つの歴史を旅する作法、バーチャルな追体験の営みが可能となったのです。しかしこうした作法は、ある虚構、仮想空間に封じこめられた旅にすぎないだけに、歴史を己の眼で読み解いたものではありません。それだけにドラマの世界に秘匿されている闇を撃つには、ドラマが問いかける時代を、時空の旅人として自在に切り裂かねばなりません。そこで旅する作法の一端を略記しておきます。
「二つの祖国」(著:山崎豊子) 現代が素材となった1984年の「山河燃ゆ」は、太平洋戦争の時代を生きた日系アメリカ人二世を主人公に、戦争の時代、愛国心とは何かを問いかけています。この1984年は、中曽根内閣の下で日米同盟強化が目指され、国家ナショナリズムが強調されていく時代です。この100年前1884年は松方財政により各地で借金党、困民党による農民反乱が起こるなか、華族令が公布されるなど大日本帝国のかたちが見えてきた年、90年前の1894年日清戦争、80年前1904年日露戦争と10年ごとの戦争で日本は大陸国家への道を直走ります。こうした遊び心でドラマが提示した世界を旅し、歴史の闇、歴史として語られている世界が封印してきた闇を切り裂いてみてはどうでしょうか。
 2009年、始まったばかりの「天地人」は、100年前の1909年が伊藤博文が暗殺され、韓国併合(1910年)となり、50年前1959年が皇太子結婚、美智子妃誕生、その10年後1969年が東大安田講堂を巡る攻防、全共闘による学生反乱が終焉へ。ドラマが説こうとする「愛」なるキーワードは、空前の不況下で路頭をさまよう人びと、戦火と飢餓に脅かされている者の存在への問いかけでもありましょう。「愛」と「義」を辺境から天下をみつめた兼続の眼に託したのは、兼続の実像にかかわりなく、「改革」を大義に地方を疲弊させ、民を飢えさせている現状への告発があるのかもしれません。それだけに、このドラマがどう描かれるかを、「民飢え社稷亡び何故国家ぞ」との想いで視てはどうでしょうか。

 ドラマの作成者は、どれだけ己の手足で、時空の旅人としてあゆみ、歴史の闇にせまってくれるでしょうか。