大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

信長という男
太閤記、国盗り物語、信長KING OF ZIPANGU…
作品を通して現在を読み解く

大河ドラマと時代

 信長は、NHK大河ドラマにおいて、高橋幸治演じる信長が退場するのを惜しむ視聴者の声で1965年の「太閤記」で「本能寺の変」の回が延期されたように、「国盗り物語」(1973年)、「信長King of Zipangu」(1992年)等で時の話題を集める、歴史上で最も注目を集めてきた人物です。
 1965年は、池田内閣から佐藤内閣の下で建国記念日が制定されるなど、国家ナショナリズムの風潮が強くなるなかで、授業料問題から大学紛争が全国に広がり、中国の文化大革命が「革命的」高揚感を時代人心に及ぼし、ある種の熱気が社会に漂っていました。信長像には、叡山焼き討ちに旧時代を破壊し、本能寺に亡びるまで、時代を駆け抜けた革命児の運命への共感が託されていたようです。
国盗り物語:司馬遼太郎 「国盗り物語」は、佐藤内閣の跡目をめぐり、田中角栄が福田赳夫に勝利して、1972年に田中内閣が発足、列島大改造の投機熱を重ねてみるとよいでしょう。「信長King of Zipangu」は、宮沢内閣がバブル経済の崩壊、政権与党自由民主党の崩落が始まりだした時代を物語るように、宣教師ルイス・フロイスの眼で転換期日本の王たろうとした信長を描いています。それは王たろうとして亡びを奏でた男への哀歌ともいえましょう。信長は異能の王にほかなりません。「今太閤」と称された田中角栄に対し、宮沢喜一はあまりにも教養人でありすぎ、政治家に問われる「異能」さを持ち合わさなかったようです。

尾張の王

 フロイスは、1568年6月1日の書簡で、「尾張の王」信長との出会いを報じています。

尾張の王は年齢37歳、長身痩躯、髭少し。声は甚だ高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧にして、殆ど規律に服せず、部下の進言に従うこと稀なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、自ら奉ずること極めて薄く、日本の王侯は悉く軽蔑し、下僚に対するが如く肩の上より之に語る。諸人は至上の君に対するが如く之に服従せり。善き理解力と明晰なる判断力を有し、神仏其他偶像を軽視し、異教一切の卜を信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂不滅なることなく、死後何物も存せざることを明に説けり。

 信長はフロイスを二条城の工事現場で引見しました。フロイスは、祭壇、仏像、石造等を建築用資材となし、組織的に工事を展開していく信長の異能、自由なる組織者の姿に瞠目します。ここには「自由狼藉」を地で行く自由人、新時代を先駆ける人間の姿が読みとれましょう。

第六天の魔王信長として

 武田信玄は、遠江・三河に侵攻しようとした際に信長に送った書簡に、「テンダイノザスシャモンシンゲン(天台座主沙門信玄)」としたのに対し、信長は「ダイロクテンノマオウノブナガ(第六天魔王信長)」と応じたそうです。ここにフロイスは、「悪魔の王にして諸宗の敵なる信長ということ」だとなし、偶像の破壊者信長が信玄との対決に「神の御慈悲」で勝利するようにと祈ったのです。宣教師は、信長のなかに、「自覚しないが、わが聖教の道を開くためデウスが撰び給へるもの」と位置づけ、キリシタンの庇護者とみなしていました。しかし「信長の慢心と所業を思へば、デウスの教に服従するは不可能」とも認識していました。
安土城織田信長公本廟(滋賀県蒲生郡安土町) ここに信長は、安土築城により「天下布武」が実現すると、城山に総見院を建立、富と長寿を約束したのです。それは、フロイスが証言しているように、「信長は己自らが神体であり、生きた神仏である。世界には他の主なく、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」のです。そのため本能寺における死は、デウスの御罰であり、「体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄の葬られた」となし、ユダヤを征服し、バビロンの栄華を築いたネブカドネザル(BC605―562)の傲慢にたとえ、「傲慢のため身を亡ぼした」と、宣教師から指弾されました。まさに尾張の王から日本の王へと駆け抜けたわけなのです。信長は、時代の闇を一閃に斬り開いた男として、閉塞感みなぎる時代人心の心をとらえてやみません。

 愛を説く「天地人」で信長はどのように描かれるのでしょうか。信長は、安土から地球儀を通して世界を読みとり、「天下布武」後の「平和」―「革命」後の新秩序にこそ「愛」が実現できるとの想いをいだいていたといえましょう。
 ドラマが兼続に託した「愛」のかたちを見つめることで、現在を己の眼で読み解くのも一興でしょう。