大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史
今年も12月8日が近づく
「宣戦の詔」で思う
日本の戦争は世界に何を問いかけたのか
日本の戦争に見る国家のかたち
10年ごとの戦争-大国への道
12月8日が近づくと戦争が語られます。この戦争は、占領軍の指示で「大東亜戦争」なる名称が否定され、米軍の呼称である「太平洋戦争」と呼ばれて現在にいたっています。この「太平洋戦争」という呼称は、満洲事変にはじまる中国との戦争が読めないとして「15年戦争」、ついで第二次世界大戦の全構造に位置づけるべく「アジア太平洋戦争」なる名称が学問上で使用されています。
「15年戦争」という位置づけは、1931年9月の満洲事変が1937年7月からの日支事変に拡大し、さらに1941年12月の対英米開戦となり、1945年8月15日の終戦詔勅の放送、9月2日の降伏文書調印で終結するまでの15年間の戦争であったという認識を示したものです。
「アジア太平洋戦争」なる名称は、「日支事変」と称された中国における日本の戦争が対英米開戦により、アジア太平洋における戦争となり、ヨーロッパ大西洋の戦争と一体となることで、全世界規模の戦争たる第二次世界大戦に名実ともになったとの認識を述べようとしたものです。
開戦時の日本政府は、米英との戦争を、支那事変をふくめ、アジアを欧米の殖民地支配からの解放をめざす戦争であるとして「大東亜戦争」と命名しました。ここには、欧米世界に対峙し、大東亜―アジア解放をかかげた戦争であるとの大義がこめられています。
日本は、1894、95年の日清戦役、(1900、01年の北清事変、)1904、05年の日露戦役、1914~18年の欧州大戦、1918~21年のシベリア出兵(シベリア戦争)、1931年満洲事変、1937年支那事変と、ほぼ10年ごとに戦争をすることで状況の打開をはかり、大陸国家たる大国への道を歩み出してしまいました。
こうした日本の戦争は何を世界に問いかけたのでしょうか。
今回は、「宣戦の詔」を読むことで日本の戦争を考えてみませんか。
清国に対する宣戦の詔
天佑を保全し、万世一系の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆(ゆうしゅう)に示す。
朕(ちん)茲(ここに)に清国に対して戦を宣す。朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、宜(よろし)く朕が意を体し、陸上に海面に、清国に対して交戦の事に従い、以て国家の目的を達するに努力すべし。苟(いやしく)も国際法に戻(もと)らざる限り、各々機能に応じて、一切の手段を尽すに於て、必ず遺漏(いろう)なからんことを期せよ。露国に対する宣戦の詔
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に露国に対して戦を宣す。朕が陸海軍は、宜く全力を極めて露国と交戦の事に従うべく、朕が百僚有司は、宜く各々其の職務に率(したが)い、其の権能に応じて、国家の目的を達するに努力すべし。凡(およ)そ国際条規の範囲に於て、一切の手段を尽し、遺算なからんことを期せよ。独逸国に対する宣戦の詔書
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に独逸国に対して戦を宣す。朕が陸海軍は、宜く力を極めて戦闘の事に従うべく、朕が百僚有司は、宜く職務に率循して、軍国の目的を達するに勗(つと)むべし。凡そ国際条規の範囲に於て、一切の手段を尽し、必ず遺算なからんことを期せよ。米英両国に対する宣戦の詔書
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本国天皇は、昭(あきえあか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海軍将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからんことを期せよ。
「詔勅」の構造
開戦詔勅は、日本が開戦する理由を世界に告げ、その正当性を主張するものです。日清戦争では、最初の対外戦争と意識されたものだけに、文明の法理である戦時国際法をふまえた宣言をどのように書くかが問われました。冒頭の「天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本(帝)国皇帝(天皇)は忠実(誠)勇武なる汝有衆に示す。朕茲に〇〇国に対して戦いを宣す。朕が〇〇」などという文言は、日清戦争の際に起案されたもので、以後の詔勅では若干の字句に違いがあるものの同一です。
交戦国については、日清戦争とするまでに、清国、韓国とするか否かでの議論、「日清韓戦争」との認識もみられましたが、「日清戦争」で決着します。開戦の布告は、戦争の大義を世界に告知するものだけに、国家の存在根拠を明示したものです。未だ若い明治国家は、万国公法と称された国際法の秩序に入ることで、アジアの独立国家たる地位を確守しようとしました。このことは、「国際法に房らざる限り」「国際条規の範囲に於て」と、国際法の遵守を高らかに宣言しています。
しかし対米英戦においては国際法への言及がありません。ここには大東亜戦争という戦争の特質が読み取れます。
明治維新にはじまる新生日本は、国際法の秩序に強く規定されていました。この国際法は、木戸孝允が「万国公法は弱国を奪う一道具」となし、陸羯南(くが かつなん)が「欧州諸国の家法」にすぎず、「世界の公法にあらず」と糾弾していますように、「キリスト教国」「白皙人種」「ヨーロッパ州」の「特権掌握国民」の法との認識を強く持っていました。しかし日本は、欧化-文明化による主権国家として独立富強をめざすべく、「文明国の標準」を受け入れることで国際社会に参入しようとします。そのためには、いかに「欧州諸国の家法」であろうとも、万国公法たる国際法を遵守し、文明国日本を認知してもらわなければならなかったのです。
大東亜戦争は、第一次大戦の戦勝国とし、欧米列強と肩を並べた帝国日本がヨーロッパの説く文明の論理をアジア殖民地支配の道具とみなし、「文明国の標準」を万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理で否定することをめざしたものです。そのため開戦宣言に「国際法」なる文言は無用とみなされました。
「戦役」「変」「戦争」にひそむ闇
かつ日本は、この対米英戦を「交戦」「国家の総力を挙げて征戦の目的を達成」と説いたように、初めて呼称を「大東亜戦争」と、「戦役」でなく「戦争」とみなしたのです。それ以前は、日清も日露も「戦役」であり、「欧州」の「大戦」への参加にすぎず、「満洲」「支那」を「事変」とみなしています。この名称には、天皇の国である日本の戦争観が表明されているのではないでしょうか。戦争は、天皇に順わぬものに対する「戦(いくさ)」であり、役務とみなされていました。「王朝」たる正統政府への反逆ゆえの「変」だったのです。いわば「前九年後三年の役」「応天門の変」のようなものに通じる世界からの眼で近代の戦争をとらえていたといえましょう。総力戦という認識を実感するまで。なお、「皇帝」が「大日本国天皇」と記載されたのは、前回の(10月号 Vol.20)「君主」の称号をめぐる時代の動向がここにあらわれたのです。
開戦詔勅が表明した世界から日本の戦争とは何かを問い質すとき、文明国たろうとした日本の根が見えてくるのではないでしょうか。日本は、「文明」を大義としたヨーロッパ的な国際秩序に対峙し、万世一系の皇国日本の原理を主張することで世界秩序の再編を目指したのです。そのため戦争は、皇国守護のための「義戦」とみなされ、いまだこの呪縛にとらわれ、戦争を凝視できないまま「皇国」という神話を「美しい日本」に託して語ろうとしている精神の貧困さに気づいていません。それだけに開戦詔勅が問いかけた戦争の大義を時代に位置づけて読み解く作業をしたいものです。