大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史
ニホンか?ニッポンか?
国号・元首の呼称
ジャパン・ダイニッポンと、皇帝・天皇をめぐり
国のかたちを問う
オリンピックやサッカー等の国際試合で、日本の応援団が「ニッポン」「ニッポン」と連呼する姿が日常化しています。郵便切手には「日本郵便NIPPON」と印刷されています。日本は「ニッポン」か「ニホン」かどちらなのでしょうか。この呼称は何時からでしょう。
ちなみに、古くは中国の正史『魏志』『後漢書』などでは「倭」と称され、『旧唐書』に「倭国」「日本」が登場し、『新唐書』以後は「日本」なる呼称が一般化してきたのです。
この国家をめぐる呼称には、元首の呼称とともに、国の形が問われています。復古革命で成立した近代日本は、「開国和親」という国策の下、国号を「日本」「大日本」とも便宜に使用しており、元首たる天皇の呼称を皇帝Emperorともなし、条約批准書では「皇帝」を用いてきました。この問題は、1926(大正15)年3月16日に東京府下渋谷町(現東京都渋谷区)の官吏江川芳光ほか2名が衆議院議員由谷義治の紹介で「国号ノ称呼使用ニ閲スル請願書」を衆議院に提出、採択されたことで、1930年代の国体明徴の気運に乗じ、政治の課題となってきます。ここには、世界恐慌下の閉塞感を打開すべく、「国体」に名をかる閉ざされた愛国心の奔流が読みとれます。
「帝国ノ不面目不見識」を糺す
江川は、「請願書」で、「大日本帝国」が国号であり、「ジャポン」「ジャパン」の語を使用することの不可を力説、「ニホン」「ニッポン」に改正するように求めたのです。
我カ帝国ノ国号ハ「大日本帝国」ナルコトハ一点ノ疑ヲ容レサルトコロナリ。然ルニ語源不明瞭ナル「ジャポン」又ハ「ジャパン」ナル語ヲ以テ条約上ノ原文又ハ外国郵便「スタンプ」等二使用セル如キハ実ニ帝国ノ不面目不見識ヲ表ハスモノニシテ帝国ノ威信ヲ損スルコト尠(すくな)カラス。依テ速ニ世界各国ニ対シ帝国国号ノ呼称使用ヲ宣言シ小ニシテハ速ニ外国郵便
この請願書は、若槻礼次郎首相に送付され、若槻から幣原喜重郎外相に回付されました。幣原は、安達謙蔵逓相の同意を経た上で、1927(昭和2)年1月、一国の国号を外国語で表示するのに何を用うるかは「畢竟便宜ノ問題」となし、「ジャポン」「ジャパン」の使用は「何等帝国ノ不面目又ハ不見識ヲ表ハシ或ハ帝国ノ威信ヲ損スルモノ」ではないとなし、2月2日に請願不採択を閣議決定とします。
この間、1月27日には衆議院議員由谷義治が「我カ国国号ノ統一顕正ニ関スル件」を衆議院に提出、国号を「大日本」、呼称を「ダイニッポン」となし、「世界ニ向テ国号ノ顕正ヲ宣布」するようにと建議していたのです。その理由は、「国号ノ統一顕正ハ実ニ皇室ノ神聖ト国体ノ尊厳ト国土ノ光輝ト国民ノ感激トヨリ論断考察」すべきものと訴えています。
ついで2月17日には、熊谷五右衛門らが清瀬一郎らが賛成者に名をつらねた国号の呼称使用の建議を提出します。この建議は、「今ヤ我ガ帝国ハ世界二於ケル優等国トシテ自他共二之ヲ許スノ時代」なのに、語源不明ナル「ジャポン」、「ジャパン」なる語を使用する不可を問い、「昭和ノ新政」に相応する「帝国国号ノ国有名称の称呼使用ヲ宣伝スへシ」と訴えたもので、衆議院で議決されました。しかし田中義一外相は何らの措置も講じていません。
“Dainippon”という幻想
「ジャパン」を「ニッポン」と改めろという主張は、「ジャパン」が漆器の意であり、「日出国民族ノ自尊心ヲ傷クルモノ」で、西洋人が勝手につけた名称で「愚者又ハ劣等人種ト云フコトヲ言ヒ表ハス語詞」として用いられているのであり、「外尊内卑ノ悪弊ヲ高カメ国民ノ自重心ヲ薄カラシメ思想ヲ悪化セシムル」ものだと糾弾してやみません。
国号呼称問題は、国体明徴という風圧下、満州事変後の国際社会からの孤立化ともあいまち、日本の存在根拠を万世一系の皇統の国という観念を砦とする国体論の隘路(あいろ)に落ちこんでいきます。
1933年には、「天皇」「大日本」という呼称を外国文の条約正文中に使用せよとの主張がおこり、外務省がその対応に苦慮しました。外務省は、「外国文中二於テ自国ノ国号ノ国有名詞ヲ其ノ儘使用スルコトガ却テ例外」となし、「帝国がTenno及Dainipponナル固有名詞ヲ其ノ儘外国文ノ条約正文等二於テ使用スルコトハ理論上不可能事ニ非ザルモ、帝国ノ如キ強大国ガ国際慣例ニ対シ斯ル例外的取扱ヲ要求スルコトノ妥当性ニ関シテハ疑問ノ余地アルベク且斯ル要求ヲ為スモ各国ニ於テハ従来ノ称呼ニ馴レ之ヲ早急ニ改変スルコト困難ナルベシ」と、事の由を説いたのです。
しかし1934年の第65回帝国議会貴族院では、「国号尊重ト国号ノ呼称確定二関スル請願」の趣旨説明で、東京帝国大学教授三上参次が「大事ナ自分ノ国号ガマダ一定セラレテ居ラヌト云フコトハ非常ナ不面目」「国家ノ恥辱」となし、「ニホン」「ニッポン」の二種類の称呼の正否をに十分に歴史的に解明して一定することを主張し、「シナ」を「中華民国」というのであれば、「わが国のことはよろしく「大日本帝国」又は「大日本国」と称すべしとの意見を開陳しています。日本の呼称は、漢字文化圏に属するだけに、中華帝国の文脈に対抗するためにも、「大日本」たることを力説せねばならない心理につきうごかされていたのです。それだけに中国・中華民国ではなく、「シナ」という呼称にこだわります。
「皇帝」を「天皇」に
こうした国号呼称問題は、1935年に原嘉道柩密顧問官と外務省の意向をふまえ、法制局の諒解の下に、国号統一は「不可能」だが、「不取敢外務省関係ノ条約等ニ於テ国号及元号ノ表示方法トシテ「大日本帝国」「大日本帝国皇帝」ト為スコト然ルベシ」と決しましたが、1936年に「皇帝」を「天皇」に訂正します。
しかし「日本」が「ニッポン」か「ニホン」かの問題は先送りされています。ちなみに1934年3月に文部省国語調査会は、国号を「ニッポン」と称する案を政府に提出しておりますが、正式決定されていません。ただし郵便スタンプでは、同年4月19日の逓信省告示928号で逓信日付印形式中Japanの文字をNipponに改め、現在にいたっています。この間、大阪の映画解説者森口繁基が国名ジャパン抹消期成会を結成し、抹消運動を展開するなど、閉塞下の心意に便乗する売名行為が見られもしました。
外務省は、国体明徴に名をかりた諸種の動きに配慮し、「国号及御称呼変更ノ問題」を「公表スルハ面白カラス」となし、条約公付などで「自然ニ外部ニ知ラルル程度ニ止メ置キ度」こととしていました。しかし宮内省武部職が1936年4月に宮内省互助会の雑誌『互助』にのせた「御親書等記載御称呼変更」なる記事をもとに、「皇帝」に代り「天皇」と称することとなった旨が新聞に報じられたのです。ここに外務省は、急ぎ次のような発表をしました。
外務省テハ曩ニ国際条約及大公使御信任状等ニ於テ国号ハ「大日本帝国」トシ又御称呼ハ「天皇」と記載シ奉リ従テ国号御称呼併セテハ「大日本帝国天皇」ト申上クルコトニ決定シ既ニ実行中テアル
かくて日本の国号は「大日本帝国」、元首の称号は「皇帝」という一般的名称ではなく、万我無比なる天皇、万世一系の皇統たる万国の総帝ともいうべき天皇とされたのです。しかし、天皇の英文表記は、1936年作成の宮内省内部資料によれば、「(元首表記の和文英訳については)従来ノ慣例通リトナスコト」との規定により、“Hirohito Emperor of Japan”とされていました。
ここには、皇室が時代の闇に封じこめられることなく、天皇を一人のEmperorにしておきたいとの思いがうかがえましょう。しかし、時代人心は、時代閉塞感におおわれ、行き場のない情念を「国体明徴」なる気分に託さざるをえなかったのです。そのため自己愛を代弁する器として、国号や元首たる「天皇」の称呼をめぐる言説に己が身を投じることで、時代の闇を突破しようとしていたのです。ここに提示された日本の姿には、昨今の世間にみなぎる閉塞感と重ねた時、己が足場を直視することにおびえ、「自虐史観」を云々し、「自己愛史観」を説き、「日本人の誇り」を奏でる「愛国者」なる者の言説に通じる世界が読みとれませんか。