大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

“建国記念の日” 「国家祝祭日」誕生物語

「紀元節」の創造

 2月11日は、「建国記念の日」という「国民の祝日」ですが、1945年の敗戦までの日本では「紀元節」として国家の最も重要な祭日でした。維新政府は、神武復古をかかげ、徳川政府を否定し、万世一系の天皇の下にある国の建設をめざします。この国の原点は、日本書紀に天皇が「辛酉年春正月庚辰朔(かのと とりどし はるしょうがつ かのえ たつ ついたち)」に橿原(かしはら)の宮で即位し、「元年」としたという記事をもとに、神武即位を紀元としたことによります。新政府は、1872(明治5)年11月9日に万国暦として太陽暦を採用したことで、11月15日に太政官は神武即位を紀元となし、太陽暦による新年(明治6年)の1月29日が旧暦の「正月朔日(ついたち)」にあたるので、祝日として祭典を執行するように、との布告を出しました。この神武即位日は、宮中で毎年祭典を行い、天皇が遥拝(ようはい)する重要な祭事であるので、年々上下一同も遥拝するようにと命じられたのです。

改暦と国祭日

画像:五節句 1873年1月4日には、改暦により五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)(※1)を廃止して神武天皇即位日と天長節を祝日とすることが布告されます。3月7日には神武即位日が紀元節と名づけられます。しかし太陽暦のいつが「正月朔日」になるかは年により一定しません。そこで政府の天文局は固定するために、日本書紀の「辛酉の年」を西暦紀元前660年とみなし、「正月朔日」を2月11日とするとの報告をしました。ここに2月11日の紀元節は、11月3日の天長節(天皇誕生日)とともに、最も重要な国祭日と位置づけられ、休業日とされ、国民が仕事を休み、奉祝することを課しました。ここには神武復古を掲げた新国家創立の理念がみごとに表明されています。

赤丸を出させる日か

 国家創設や君主の誕生日を祝日とする発想は、西洋君主国の祝日観によるもので、日本の生活感覚とは無縁なものでした。そのため民衆は、新しい暦日になじめず、五節句廃止にとまどい、お上の「文明開化」を呪詛(じゅそ)さえしました。「文明開化」の理を説いた『開化問答』という啓蒙書には、民衆の気分を代弁する「旧平」なる人物が太陽暦の採用を「毛唐人に降参してその属国になりし訳」「恥辱を受くるは心外至極」と怒り、「祝日は世間の人の祝う了見が寄合うて祝う日」なのに、むりに祝はせるとは何事かと述べ、政府が「強て赤丸を売る看板の如き旗や堤燈を出さするのはなおなお聞こえぬ理屈」と、「日の丸」掲揚の強制を激しく批判します。

やっと祝日に

 国家が創設しようとした祝祭日は日本の生活文化とは異質なものだけに、国祭日が定着して行くには時間がかかりました。そのため明治政府は、1891(明治24)年に小学校祝日大祭日儀式規程を制定し、教育勅語やご真影と一体化し、学校行事を営むなかで、国家創成の記憶を国民の身体に鋳込み、日本国民たる自覚を養成することにつとめねばなりませんでした。
 まさに「建国記念の日」は、敗戦により紀元節が廃止されたものの、講和独立後に紀元節復活が叫ばれ、やっと1966(昭和41)年に決まり、翌67年に敬老の日、体育の日と合わせて「国民の祝日」に追加されたものです。
 こうした祝祭日誕生の物語は、国家が生活のリズムを規定し、国民の記憶の場を操作する世界だけに、歴史を己の眼で問い質す作業を営むことで読み解きたいものです。まさに紀元節をめぐる言動は時代の潮流を測るものといえましょう。

※1:五節句
五節句の「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目のこと。季節の旬の植物を食すことで邪気を祓う目的から始まった。改暦によって廃止されるが、風習は残り、現在も重要な年中行事となっている。
また、五節句は3月3日、5月5日、7月7日、9月9日と、奇数の重なる日が選ばれているが、1月だけは1日(元旦)を別格とし、7日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れている。
人日 1月7日
じんじつ。七草の節句。
七種類の若菜を入れた温かい吸い物を食べて一年間の無病息災を祈る。
上巳 3月3日
じょうみ・じょうし。桃の節句。
中国の節句の行事と、日本に古代から伝わる禊祓(みそぎはらい)の思想や、「人形(ひとがた)」を流す風習とが混じり合い、日本ならではの上巳の節句になったという。現代は雛祭りとして定着し、女子の節句とも呼ばれるようになった。
端午 5月5日
たんご。菖蒲の節句。
江戸時代より「しょうぶ」という言葉が武を重んじる「尚武」と同じと考えられ、家の後継ぎとして生れた男の子が無事成長していくことを願う行事となった。このことから男子の節句も呼ばれるようになった。
七夕 7月7日
たなばた。星祭。
七夕は当初、女性が手芸の上達を願って、美しい糸や金銀の針などを夜空のふたつの星に供える祭事だったが、中国から短冊にさまざまな願い事を書き、夜空に輝く織女星と牽牛星に供える習俗が伝わり、現代のような行事となっていった。
重陽 9月9日
ちょうよう。菊の節句。
九という陽の数字(奇数)がふたつ重なることから、めでたい日とされた。長寿と共に邪気を祓い災厄を除くことを祈る。

参考:社団法人 日本人形協会