大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史
河原操子の足跡 ―コードネーム「沈(しぇん)」として―
明治末、内蒙古に現れた一人の日本人女性
教育報国
日清戦争後の日本は、ヨーロッパで明石元二郎、宇都宮太郎らがロシアの革命勢力に接触し、満州シベリアで石光真清、花田仲之介等が写真館等を営んでロシア軍の動向を探るなど、対露戦に備えた情報収集に力をつくしていました。こうした情報の渦中に身を投じた女性が河原操子(かわはら・みさこ)です。操子は、内モンゴルのカラチン王府に教育顧問として赴任、モンゴルの女子教育をはじめる一方で、対ロ情報を収集し、シベリア鉄道爆破作戦の前線基地を用意する使命を担う諜報活動に従事する「沈」として活動します。
河原操子は、1875(明治8)年に藩儒河原家の一人娘として生れ、96年に長野県師範学校を卒業、女子高等師範学校に進学したが病のために退学して帰郷。99年に長野県立高等女学校教諭になります。教師たる道を歩んだのは、幼少より父忠から説き聞かされていた「国家百年の計は教育にあり、国を富ますも、強くするも、根本は教育だ」と、「教育報国」の志を実現するためです。
この「教育報国」への思いは、「日本と支那とが互に手を握り合わなければ、東洋の平和は得られない」と教えられた父の遺命にうながされ、清国女子教育に従事したいとの強い祈念となっておりました。1900年夏、明治の女子教育界の指導者下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への宿志を述べ、助勢を嘆願します。
ここに操子は、下田歌子の推薦により、横浜の清国人学校大同学校教師として9月に赴任。この赴任は「本邦婦人が支那人の学校に教師となり嚆矢」といわれるものでした。大同学校での2年近い教師生活の後、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任。生徒と起居を共にしてこそ教育がなせるとの信念の下、「不潔不快言語を絶ち、鼻を覆わざれば悪臭に気死し、目を閉じざれば汚物に嘔吐を催す」という城内居住をなし、女生徒の指導に力をつくします。この上海行きは、大同学校での操子の働きが、歌子の次のような思いを実現せしむる女教師として認められていたがためです。
初めて彼国に赴任して彼の子女を教育するものなれば、教員としての実力以外に日本婦人を代表する覚悟なかるべからず、忍耐力なかるべからず、強固なる意志を有する婦人ならざるべからず、また万事を円満に処理し得る人
カラチン王府にて
操子は、不潔、汚穢(おわい)、悪臭、流行病におおわれた城内の生活にみられるアジアの野蛮に教育の光をあて、シナを文明に導くために奮闘します。その働きに中国公使内田康哉は注目しました。かくて内田は、対露戦を前に、要衡地モンゴルに親日勢力を扶植する尖兵として河原操子をカラチン王府に派遣します。この派遣は、1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請されたがためです。
操子は、「数千年来眠れる蒙古の覚醒に歩を進めん」との強き思いで、1903年12月に北京を出発、寒気厳しい北の曠野にあるカラチンへ向かいます。この旅程は、北京からカラチンまでの沿道地図を作成する任をおびた参謀本部の軍人を同道していたように、「国家興亡の岐るる秋」との秘命をおびたものでした。
カラチン王府は、操子の手になる毓正(いくせい)女学堂を支援し、王妹と後宮の侍女、官吏の子女を学ばせました。学堂は、「進歩と文明とを愛し、保守と野蛮とを恥辱」とする王妃の授助もあり、「娘等を王府につれて行くと、洋人が木の檻の中に入れてしまう」という風聞をのりこえ、60名の生徒をかぞえるまでになります。
学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語からなっていました。操子は、地理、歴史、習字の一部を除き、全教科を担当するとともに、月に数回の啓蒙講演会を開催、モンゴルの生活改善に努めます。
「沈」として
操子は、こうした教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果しています。「沈」河原操子は、ロシア軍への破壊工作をすべく、エニセイ河の鉄橋爆破に向う横川省三らの特別任務班のための前進基地を用意したのです。王と王妃は、操子を信頼し、特別任務班のために多くの支援をしてくれました。1904年3月、北興安嶺をめざした横川らの一行は、破壊工作に失敗、ハルピン刑場の露と散ります。
操子は、モンゴルの女子教育を考古学者鳥居龍蔵婦人きみ子に託し、日露戦後の1906年2月に帰国。鳥居きみ子は、夫龍蔵の「東亜考古学」にかける思いを果させるべく、カラチン王府の女子教育に身を投じたのです。モンゴルで蒔いた操子の種は、「私たちはねっしんに勉強しますから、先生どうぞごあんしんくださいませ」と教え子が手紙をよせるほどに、若い民族の心に大きな火種を宿していました。
河原操子のアジア連帯への思い、鳥居きみ子が夫の夢にかけた女の姿には、アジアの一小国が世界の帝国へと飛翔しようとする時代のなかで、己の人生を国家の命運とともに歩もうとする確かな足跡がうかがえます。「沈」こと河原操子が思い描いた一場の夢は、日本が帝国へ歩む道程で、一個の女性が大地に刻した世界にほかなりません。
大濱徹也
『庶民のみた日清・日露戦争 -帝国への歩み-』
(刀水書房)