大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

肖像に読みとる明治維新

明治天皇と神武天皇

神武天皇立像(東京芸術大学美術館蔵)  明治維新は神武復古をかかげた復古革命です。この革命の意味を具現した世界は神武天皇像が明治天皇像と同一であることに読みとれます。
 「御一新」を目指した討幕の潮流は、徳川将軍家が支配する状況を打開すべく、「新運到来」の声に託されたように、新時代を待ち望むムードの醸成をめざし、開国下の不穏な世情にみられる現状否定を先導する1)御陵修補運動、2)神武天皇信仰、3)楠公信仰―南朝顕彰運動等がもたらした大きな波濤によって形成されたものです。御陵修補運動は、古文化財保護運動ともいうべきものですが、河内の万葉学者伴林光平が開港による諸色高値がもたらした世情不安を御陵―天皇陵の荒廃により天皇の御霊が荒魂となったことによるものだと意味づけ、天皇霊を安らかに眠りにつかせるために御陵の補修が必要だと説いたことによって強い政治性を帯びたものとなりました。それは「万葉」にうたわれた古代の御世を理想の世とみなす「復古」へのロマンを奏でました。
 この古代幻想は、「神武創業」と語られた日本建国神話の主、初代天皇である神武天皇への熱き思い、神武天皇信仰を蘇生させることとなりました。世間では神武天皇の人気が高まり、その書画骨董の値が上がってきたとの風聞がまことしやかに流れています。それは神武の御世が君民共に楽しむ理想の世だとする復古への熱き思いをうながしたのです。  維新政府は、「王政復古の大号令」で「癸丑以来未曾有之国難」をのりきるべく「王政復古」をなし、「諸事神武創業之始」にもとづいた政事を行うという宣言をしました。かくて「神武復古」「開国和親」をかかげ、蝦夷地から琉球に連なる日本列島にまたがる国家の樹立がめざされたのです。国家をまとめるには、列島の住民が新しい日本国の民、「国民」を生み育てねばなりません。この「国民」創生の物語を託されたのが「神武復古」で説き聞かされることとなる「万世一系」の皇統神話です。ここに列島の歴史は、万世一系の皇統に収斂されていく国家の物語として造形され、国家への統合を自明の理とする集権的な知識体系の下で、辺境に生きる民の物語を残滓であり、死滅すべきものとみなしたのです。そのために産土の祭りは「淫祠」として否定され、村の生活を彩る多様な営みは国家の行事暦に改変されていきます。

「幕末・明治・大正 回顧八十年史」東洋文化協會 ここに国家暦は「神武復古」を具体化すべく設定されました。1873(明治6)年には、万国暦としての太陽暦が採用され、「年中祭日祝日」についての布告で五節句祝(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽)が廃止されます。新たに国家祝祭日としては、神武天皇が即位した辛酉の年が紀元元年、皇紀を定め、1月29日(後に2月11日に改定)を神武即位日、後に紀元節、明治天皇の誕生日11月3日を天長節となし、紀元節と天長節を基軸に構成されます。
 1889(明治22)年には、翌1890年が紀元2550年にあたるがため神武建国を万代に伝えるべく、神武天皇を祭神とした橿原神宮が創建されました。この紀元2550年に造形されたのが東京美術学校教授竹内久一の神武天皇立像(東京藝術大学美術館蔵)です。この神武天皇立像は明治天皇の相貌を鋳込むことで可能となりました。
 明治天皇の肖像写真は、1871(明治4)年の横須賀行幸での記念撮影、1872(明治5)年に写真師内田九一撮影のものがありますが、1888(明治21)年1月の弥生社行幸の際に宮内大臣土方久元が御雇外国人キョソネにふすまを隔てて天皇の顔を見せて原画を描かせたのを撮影させたものが「御真影」となり、地方政庁、官立学校に下賜されていきます。神武天皇像はこの御真影の明治天皇の顔と同一です。
 いわば「神武創業」という明治維新が目指した国家像は、明治天皇の「御真影」と神武天皇の相貌が同一であることで、広く国民に明示されたのです。まさに復古革命の理念は御真影と神武天皇立像に託されていました。時代が描き出した肖像は歴史の闇を解析する場であるだけに、そこに託された世界を読み取りたいものです。この作法は、何も明治天皇像に限ることではなく、ヴィクトリア女王、ワシントン、リンカーンのみならず、スターリン、ヒトラー、毛沢東、金日成等々の国家指導者がどのような姿で描き出されているかを問い質すとき、国家のあり方を考える術を手にしうることにほかなりません。