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ICT・EducationNo.15

巻頭言
 
大阪大学名誉教授/関西大学総合情報学部教授 水越 敏行

 「リテラシー(literacy)」というのは,もともと読み書きの能力を意味する。例えば,私は日本語のリテラシーは身につけているが,ハングル語とかタミール語とかについては,読み書きがまるでできない。つまり,illiteracyであるということになる。もちろん「読み書きができる」程度ではなくて,博学なとか,文学に詳しい,洗練された文章が書けるというような意味も含めて,literateという形容詞を当ててきた。

 ところが,1990年代に入ると,これまで英語文化圏—つまり,アメリカ・イギリス・カナダなど—で研究され,実践されてきたこと,それと途上国での「識字教育」の推進などに,もっと新しい視点が加わってきた。例えば,アメリカのバージニア大学教授ハーシュ(Hirsh,E.D)が,“Cultural Literacy −What Every American Need to Know− ”と題した本を著し,これが中村保男の手によって『教養が,国をつくる−アメリカの基礎教養5000語付き−』という題で翻訳された(TBSブリタニカ,1989)。

 わが国を見てみると,当時の郵政省が出した『放送分野における青少年とメディア・リテラシーに関する調査研究報告書』(2000)では,「メディアを主体的に読み解く能力」「メディアにアクセスし,活用する能力」,そして「メディアを通じてコミュニケーションを創造する能力」という3本の柱を想定し,これらが部分的に重なりを持ち,相互作用する関係にあるという多面体を想定している。他方では,社会学者でメディア論を専攻した人たちが一連の著作を連発して,今日のわが国のメディア・リテラシー研究の方向付けをしてきた(鈴木みどり編『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』世界思想社(1997),菅谷明子『メディア・リテラシー』岩波新書(2000),水越伸『デジタル・メディア社会』岩波書店(1999)など)。これらの影響を受けて,「メディアの批判的な分析と評価をする能力」などがメディア・リテラシーの中枢に位置するというようなイメージが,社会学者やマスメディア研究者以外にも広く共有されるようになってきた。NHKでも,1999年からメディア・リテラシー関連の番組を放送し,全国各地の小中学校や高校での取り組みや,アメリカやカナダの事例紹介を展開してきた。

 2002年秋の日本教育工学会(長岡技術科学大学)では,このメディア・リテラシーが課題研究の一つに加えられている。ここでは,慶應義塾大学の大岩元・斉藤俊則の師弟コンビが,記号学(semantics)の切り口から提案する。筆者は,中橋雄とこれまた師弟コンビで,デジタル・コミュニケーションの新しい実践や研究成果と,これまでの映像視聴能力の実践研究なども含めた6領域,この重なりからなる「新しいコミュニケーション能力」を提案する。すなわち,(1)メディアを使いこなす,(2)メディアのメッセージなどを理解する,(3)メディアの読解,解釈,そして鑑賞,(4)メディアを批判的にとらえる,(5)自分の考えをメディアで表現する(representation),(6)メディアでの対話(dialogue)とコミュニケーション,である。
社会学,教育学,記号学,認知心理学など,背景をいささか異にした分野からの「新しい切り口」が,今こそ求められている。そして,高校の必修教科「情報」,あるいは中学校で「情報とコンピュータ」と改名した必修領域,あるいは小学校から高校までを一貫して設置された「総合的な学習の時間」,もちろんカリキュラムの主柱となる各教科の時間,これらを串刺しするというか,往復する中で,これからの新しいメディア・リテラシー(市川克美の言う「21世紀の運転免許」)を形成していくべき時が来たと言えよう。

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