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巻頭言 |
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20世紀を代表するアメリカの心理学者,J.S.ブルーナーは,「人間の精神は,思考を表現し,拡張できるような道具,装置,技法を駆使する能力に大きく依存している」(『認知の発達の研究』1966年)と述べている。あるいは,心理学と教育学の巨人であるE.L.ソーンダイクは,『教育』(1912年)の中で,「人間を,40ページの紙(教科書)や2枚のレコードで十分にできる仕事に浪費すべきではない」と記している。教師は録音機ではなくて,それ以上の存在であるというわけである。1910年代当時のメディアは円盤レコードであったが,現代のメディアの状況は,1910年代それとは比較し難いほどの違いがある。教育は,ITの進展によって大きな恩恵を受けている。ソーンダイクの時代やブルーナーの時代と比べて,学習や教育のための選択肢が飛躍的に増大している。
私のところで卒業論文を書いた女子学生は,一度も図書館に行かなかったという。別に自慢げでもなくインターネットで必要な情報のすべてが得られたという。この帰国生は英語力がずば抜けており,論文も見事な出来栄えであった。また,別の修士課程の学生は,英語聴解力のテストの開発を行なったが,論文の口述試験のときに,開発したテストの信頼性について問われた。「スピアーマン・ブラウンの公式でもなく,キューダー・リチャードソンのK21でもなく,クロンバックの信頼度係数を用いた理由は」と質された。これに対して,「クロンバックのだけが,SPSS(社会科学のための統計パッケージ)の中にありましたから」と応えた。こういう現実に当たると,インターネットを使うことや,統計パッケージを使うことの意味ばかりでなく,学習や教育の意味を改めて考えさせられる。ブルーナーの言うように,思考を表現し,拡張できるような道具,装置,技法が変わると,学習者の能力も変われば,教育の姿も変わると思う。
「人間が,もしも,人間を変えてしまうほどのところまで,効果的な機械を開発すると…」(ルイス・マンフォード『機械の神話』1970年)と述べている。これによると,①有力な機械が出現し,普及すると,初めには想像できなかった問題が出現する。②機械が有力であればあるほど,その適用範囲が自己増殖的に広がり,人間の制御を超えるものとなる。③機械とその機能を重視する結果,効率に対する考え方が極端に走り始める。この最後の問題は特に深刻である。
あるいは,D.ハーパーとJ.スチュワートは『コンピュータ教育』(1986年)の中で,バランスのよいコンピュータ利用を提唱している。この中には,「コンピュータ信仰」,「コンピュータ・リテラシーを言うのをやめよ」,「コンピュータ・リテラシー:批判的再吟味」などを記している。これらの要点は,ハードやソフトの進歩を組み込んだ合理的で,長期的な批判に耐えられるコンピュータ教育でありたいということである。
コンピュータの教育利用に当たって,子どもや若者文化との関係(コンピュータおたく),認知・思考の発達との関係(二価値的思考),基礎学力との関係(基礎学力の低下),情意と社会性の発達との関係(社会性の欠如),社会・経済的な情報格差との関係(貧富による情報格差)などというように,考えるべき課題は多い。学校教育にとって,たちまちの課題は,メディアの利用にあたっての学習者の自主性である。例えば,インターネットの利用に際しての,メディアの図書館的利用,つまり,資料を探すための自発的な探究心の問題である。学習者みずからに問題を課す能力の育成である。こう考えると,従来の教育の図式を大胆に変えるほどの,IT時代に相応しい新たな学習論や教育論の出現が待たれるところである。 |
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