大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史
悲愁の秋-BC級戦犯の声を聞く-
BC級戦争裁判とは 後編
現在問われているのは
戦争で生き残った者は、現在の場から過去をふりかえり、あたかも見通していたかのごとく、歴史を裁断しがちです。この行為は、歴史の後知恵ともいうべき営みで、明日を生きる場から歴史を問い質す作法ではありません。歴史を読み取るには、死者の呻うめきに耳を傾け、同時的に生きることが求められているのではないでしょうか。
1945年の敗戦から60余年、戦争の時代を生きた人が時間とともに亡くなっていく中で、生者は己の過去を美しい物語の中に位置づけ、その存在を主張しがちです。その営みは、歴史に向き合い、現在ある己の場を確かめる作法から逃避したいがための行為ではないでしょうか。昨今、声高に説かれる「美しい国日本」なる言説に託される世界は、そうした欺瞞に満ちています。
戦争の時代を生きるとは一人の人間にとって何だったのでしょうか。何を問い、何が問われたのでしょうか。戦争の時代と向き合うには、この想いを身体に刺さった棘として、戦争の責めを負わされた人々のうめきに耳を傾け、現在ある日本と日本人に想い致すべきです。
そこでBC級戦犯が処刑を前に何を己に問いかけたかを読み解くこととします。
木村久夫は、京都帝国大学在学中に応召、1946(昭和46)年5月23日にスパイ容疑者処罰に関わった罪でシンガポールで処刑された一人です。高知高校(旧制)時代の恩師塩尻公明は、その遺書を『或る遺書について』(新潮社 昭和23年)として紹介し、一「学徒兵」が負わされた運命の過酷さに慟哭しています。
学徒兵木村久夫の告発
木村は、通訳として「指令や調査や処罰などの凡ゆる場面」に関係したがために、その責めを負わされて死刑にされました。この判決は、「上官に命ぜられた通りに、上官の責任に帰着すべき多くの事実隠」したがために、「意外千万にも死刑の判決が下」されたのです。そのため己が身の潔白を主張すべく「憤激した一文」を認めます。
私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私は上級者たる将校たちより、法廷に於て真実の陳述をなすことを厳禁され、それがために命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の宣告を下された。これは明かに不合理である。私にとつては、私の生きることが斯かる将校連の生きることよりも日本にとつて数倍有益なることは明白と思われ、また事件そのものの実情としても、命令者なる将校に責めが行くべきが当然であり、また彼等はこれを知れるが故に私に事実の陳述を厳禁したのである。また此処で生きることは私には当然の権利であり日本国家のためにも為さねばならぬことであり、また最初の親孝行でもあると思つて、判決のあつた後ではあるが、私は英文の書面を以て事件の真相を暴露して訴えた。(略)初め私は虚偽の陳述が日本人全体のためになるならば止むなしとして命に従つたのであるが、結果は逆に我々被命者の仇となつたので、真相を暴露したのである。(略)美辞麗句ばかりで内容の全くない、彼等の所謂「精神的」なる言語を吐き乍ら、内実に於ては物欲、名誉欲、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが、過去に於てなして来たと同様の生活を将来も生き続けてゆくとしても、国家に有益なる事は何事もなしえないことは明白なりと確信する。(略)軍服を脱いだ赤裸の彼等は、その言動に於て実に見聞するに耐え得ないものであつた。この程度の将軍を戴いていたのでは、日本に幾ら科学と物量とがあつたとしても、戦勝は到底望み得ない。殊に満州事変以後、更に南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追うことを天職とする商人よりも、もつと下劣な根性になり下っていた。然し国民は之等軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し養ってきたことを知らねばならない。結局の責任は日本国民全般の知能の程度の低かったことにある。知能程度の低いことは結局歴史の浅いことである。二千六百有余年の歴史があると云うかも知れないが、内容の貧弱にして長いばかりが自慢にはならない。近世社会人としての訓練と経験とが少かつたのだと言つても今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けることはないであろう。
この激しい憤りは、想像すらしていなかった戦犯としての処刑を眼前にして、日本と日本人への呪詛(じゅそ)でもあります。木村は、「仏前及び墓前には従来の仏花よりもダリヤやチューリップなどの華かな洋花を供えて下さい」「死んだ日よりは寧ろ私の誕生日である4月9日を仏前で祝つてほしい」「私はあくまでも死んだ日を忘れていたい」「記憶に残るものは唯私の生れた日だけであうてほしい」と述べていますように、新しき生を生きぬきたいとの強き想いを吐露しています。この叫びは、上官の命により、あるいはその場に居合わせたが故に戦犯として処刑された「学徒将校」や兵士が共有しています。
山に向かいて目をあぐ
鳥取高等農林学校を卒業後、教職に就いていた岩崎吉穂は、オーストラリア軍飛行士を処刑した罪を問われ香港で処刑されましたが、看守のオーストラリア兵の陰惨な虐待行為が日常化しているなかで、日本人同士が「自己の弁明のため他を非難しあうふ。同胞相食む悲しい明暮れ」「生を求むる人々は節操も道義もかつての誇りも何物をもなげうつて恥とせず、自己のためには僅かな有利の点をも求め、日夜汲々たる様相は正に餓鬼道」ともいえる、スタンレイ刑務所での日々を日記に記しています。
死に至る日々は、キリスト者として詩篇を読むことで、「生きたい欲望と人への愛。主への信仰、憎悪と悪欲と信仰、それは夫々の強さを以て私に迫る」(詩篇12章1節2節)毎日であり、私の信仰とは何かを問いながら、「山に向ひて祈る」(詩篇121章1節2節)想いで生きぬきながらも、国家を激しく告発する言葉にあふれています。
一人尽忠報国の念をもやし、只管祖国のよき楯たらんとし上官の命に服せし者が死刑となる。神として身を捧げた我等の天皇陛下は結局我等を足代として生命を全うせられた。死を賭して守らんとした祖国は吾々を裏切つた。そうであるにしても今以て天皇陛下を尊敬し祖国を愛し続けている日本人たる血と自愛との矛盾交々至る。
BC級戦犯の多くは、身に負わされた罪、その不運に怒り、指揮官そして国家の体質を告発し、新しい国家の礎石たらんと死を受け止めようともしています。そのなかで朝鮮慶尚道出身の軍属金栄柱(日本名 金城健之)の遺言は、他のものと異なり、一身に己が罪を負う心を述べており、心うたれます。
大変動の悲運に遭遇して過去を顧み、立派な人間になつて最後の道に進みます。(略)人間的に間違つていた私の行為に就て、私は責任を負つて死んで行きます。
ここに読み取れるBC級戦犯の姿は、国家に翻弄されるなかで、いかに一人の人間として生き得るかを問いかけているのではないでしょうか。
戦争の時代に向き合うには、これらの人びとが吐いた言葉を受け止め、「美しい国」といわれる「祖国」なるものの内実を問い質し、「間違つていた私」の新生への第一歩を踏み出したいものです。