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1 情報メディアに支配された毎日 |
情報メディアが氾濫する今日,私たちはどの程度,情報メディアを利用し,それが無くてはならない存在になっているのであろうか。情報メディアが使えなくなったら,なんて考える余裕もなく毎日が過ぎているが,考えてみると,私たちの生活のかなりの部分が,情報技術によって支えられていることに改めて気づく。
先日,羽田空港の航空会社の荷物仕分けシステムにトラブルがあり,手作業で作業を行ったため,発着にかなりの遅れが出たというニュースが流れた。システムが復旧するまでの間,手作業で荷物の仕分けを行ったそうだ。そういえば,その前には,管制塔の電源工事の際に,予備電源が切れて,管制システムが停止した事故もあった。ちょうど出張と重なっていて,空港で30分ほど待たされた記憶がある。
このように見てみると,私たちの生活の多くはすでに情報機器,情報システム無しでは成り立たなくなっている。国や地方自治体は申請業務等の電子化を進めており,国への申請業務の97%がすでに電子化されている。e-Japanの完成年度を迎え,これらの動きはさらに加速されることが予想される。読み,書き,計算と同様に,これからの時代を生きる基礎的能力として,情報活用能力は重要な能力であることは言うまでも無いだろう。
確かにデジタルメディアは,様々な情報を瞬時に集めることができる。検索エンジンで探し出した多くの情報,ブロードバンドで配信される映像情報など,必要な情報をいつでもどこでも調べることができるようになった。これらは,ネットワーク技術,デジタルメディアがもたらしてくれた恩恵であろう。
でも,これらデジタルメディアにより,私たちの思考,考えるという行為はより良くなってきているのだろうか。単に集めた情報を考えることなく,自分の考えと勘違いしてしまってはいないだろうか。また,考えるためのトレーニングは十分に行われているのだろうか。
今の状況を見る限りにおいて,デジタルメディアは私たちの時間を不必要に奪っていっているようにしか思えない部分もある。高校生の家庭学習時間が平均0時間という話もあるが,これは,高校生や大学生の携帯電話の利用状況を見れば,十分納得できる。一日の生活時間のうちどの程度携帯電話にふれ,携帯電話によって何度思考が中断されているかを考えてほしい。
メディアは人間の有する機能を拡張,増幅するものである。でも,それを利用する際には,人間のどのような機能を拡張,増幅しているのかをきちんと理解しておく必要がある。デジタルメディアは多様な機能を有している分,いろいろな機能を増幅してくれるように思ってしまいがちであるが,コンピュータは人間が行ったプログラムで動いているにしか過ぎない。思考する,考えるという行為は,人間が行うべきものであり,人間にしかできないことである。デジタルメディアを用いてより効果的に考える為に,その使い方をもっとよく考える必要がある。無くてはならないメディア,でも使い方を間違うと,人間を退化させていくものでしかなくなってしまう。
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2 教科「情報」で何を教えるのか |
上記のような社会の変化の中,教科「情報」がスタートした。高等学校の選択必修科目として情報A,情報B,情報Cが設置され,一部職業科目においては読替が行われるものの,すべての高校生が学ぶ科目として実施されている。
文部科学省によると,平成17年現在の高等学校への進学率は97.5%と,ほとんどの中学生が高校へ進学する状況になっている。高校卒業後は大学進学だけでなく,即戦力として社会で活躍する生徒も数多くいる。このような生徒に,情報社会でよりよく生きるためのスキル,センスを身につけさせ,社会に送り出すことが,高等学校での教科「情報」に求められることである。
では,教科「情報」で教えるべき,情報社会でよりよく生きるスキル,センスとはどのようなものであろうか。情報教育の3つの目標に照らして検討していきたい。
(1)情報活用の実践力
コンピュータをはじめとする様々な情報機器の操作能力は確かにその一つであることは間違いない。しかしながら,それらは基本的に中学校までに習得してくる事項になると考えられる。確かに,現在の状況では,まだ学校間の格差が大きく,高等学校入学時の操作能力には大きな開きがあるという報告もある。これも,あと数年でそれほど心配しなくてもよくなると考えられる。少なくともワープロでの文字入力や,インターネットの検索,プレゼンテーションなどは,中学校までにかなり経験を積んで入学してくることが予想される。
これらの操作にくらべ,表計算ソフトやデータベースなどは,そのソフト自体の概念理解が難しい問題もあり,使いこなすレベルまでには至っていないことも多いと考えられる。やはり,高校レベルでの活用によるスキルの習得は必要であろう。もちろん,ワープロ,ブラウザ,メールなどについても,「単に使える」ということと,「よりよく使う」ということではかなりの開きがある。高校での授業においては,基本的操作にとどまらず,ワープロの機能を十分に活用し相手を考えたレイアウトや内容の検討や,検索の絞り込みの意味やキーワードの選び方などを考えたブラウザの利用など,高校レベルで扱えることも多々ある。より内容に踏み込んで,それを相手にきちんと伝わるように表現する手段としての操作スキルの習得が求められる。
センスの育成はどうするか。これは非常に難しい課題である。以前,デザインを教える先生方にどのようにデザインセンスの育成を図っているかを聞いたことがある。そこでの多くの答えは,徹底的にスキルを学ばせるということであった。とことんまで使って,機能的な部分をきちんと理解して初めて自分の思いを表現できる。情報機器についても同じことが言えるように思うが,いかがであろうか。
(2)情報の科学的な理解
情報機器の多くは,電子部品の固まりであり,内部でどのような処理が行われているかといった動作の仕組みはわからないものが多い。詳細な内部動作までは高校レベルでは必要ないと考えるが,全くのブラックボックスでは困る。どのような仕組みで身のまわりの様々なものが動作しているのか,動作原理を理解する必要がある。
新聞などで報道される様々な事故に関しても,あまりにも動作原理の理解や基本的な知識が不足しているために発生するヒューマンエラーが多いのではないだろうか。ヒューマンエラーで事故にまで至らなくても,何かが起きたときに,全く手出しができなくなってしまうことも多いように感じている。
ネットワーク技術に関しても同様である。blogやwiki,SNSなど,様々な新しいサービスが始まっているが,それらがどのような原理で動作しているのかをきちんと理解して利用している人は少ない。もっとも,メールや掲示板,Webなどでも,その仕組みが理解されていない状況である。仕組みを知らなくても使えてしまうが,それによって知らないうちに危険に巻き込まれてしまうことも多い。また,匿名で利用できるような勘違いをしたまま,不用意な書き込みをしてしまう生徒も出てきている。何が危険なのかは,その仕組みを知ることと併せて理解しておかないと,むやみに危険を感じさせるだけになってしまうこともある。
基本的な知識に関しては,中学校までにかなり習得してきていることは間違いないだろう。しかし,数学,理科,社会…といった教科毎に分けられ,その文脈での問題は解けるが,実際の場面ではそれらが役に立つ知識として働かないということは,以前から言われている通りであろう。それらを解消するために総合的な学習の時間が始まってはいるが,まだその効果が完全に現れているとは言い難い。発達段階的に考えても,中学校の総合的な学習の時間で可能な知識の総合化は,社会の様々な問題解決のための基本的なスキルの習得のレベルにとどまらざるを得ないと思われる。高校段階では,各教科での知識を深めるだけでなく,それらを横断的につないで総合的に物事を考えるといったことをより深めていきたい。
教科「情報」は,様々なことを「考える」ための方法を学ぶ教科でもある。科学的な理解の部分に位置付けられているアルゴリズムや問題解決の方法論は,コンピュータのプログラミングの基礎ではなく,人間が「考える」ための方法論を学ぶ領域である。もちろん,その延長上に,コンピュータがどのような情報処理を行っているかを理解する必要はあるが,その前段階として,様々な事象をシステムとして捉える見方,考え方を指導したい。
(3)情報社会に参画する態度
情報社会は,これまでに訪れたどの社会に比べても変化の速度が速い。しかしながら,これらの変化も,技術の進歩の様子が見えれば,ある程度の予測をすることが可能である。現在の社会の状況を理解することも重要であるが,技術的な視点から変化を見て,これらの様子をキャッチできるアンテナをどうすれば持つことができるのかといったスキルも必要であろう。これは,教科書に書けるものではない。教科「情報」の教科書が2年ごとに改訂されている一つの理由でもあろう。
情報社会はコミュニケーションによって成り立っている。情報メディアは様々なコミュニケーションを支援するものであり,メディアによるコミュニケーションは,人間が通常対面で行うコミュニケーションと異なる特性を持つものが多い。これらを理解して,状況に応じて効果的に利用する方法を学ぶことも重要であろう。
また,情報メディアによって入手できる様々な情報には,単なるデータとして流れてくるものもあれば,制作者が意図を持って構成したものもある。入手した情報を鵜呑みにするのではなく,様々な情報を比較し,検討しながら考える能力,情報を批判的に読み解く能力(メディア・リテラシー)もこれからの時代に必要とされる重要な能力であろう。メディア・リテラシーの教育も,小学校から始められているが,高校段階においても継続的に実施していくことが必要であろう。また,教科「情報」では,実際に制作する立場に立ち,情報を「見る」立場だけでなく,「作る」立場から考えさせることも重要であろう。
情報モラルについての指導も,本当にその意味や内容を理解できるのは,高校段階であろう。ルールやマナーといったレベルではなく,法的な制約と意味,安全に利用するための技術などをきちんと理解し,行動するには,様々な基礎的な知識と総合力が必要である。 |
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3.情報教育を巡る混乱? |
このように,教科「情報」で教えるべき内容を考えていくと,2単位といった限られた時間では全く不足することは容易に想像がつく。また,大学入試科目でないので教科「情報」は不要であるという議論は,全く意味が無いことも明らかであろう。教科「情報」穀潰し論者は,高校教育の役割を勘違いしている。
教科「情報」の操作の部分は中学校までに習得してきており,モラルの部分は公民や道徳に組み入れ,他の教科で利用させれば,教科「情報」は不要であるという意見も聞かれる。しかしながら,先に述べたような内容は,本当に他の教科で実施することができるのであろうか。現在議論が進められている,文部科学省の「初等中等教育における教育の情報化に関する検討会」でも,「情報教育」と「ITの教育利用」についての整理が試みられているが,議事録に残る議論の中でも混乱しているのではという場面が見受けられる。確かに両者の重なる部分は多く,生徒の学習活動自体は一つの活動であるケースも考えら得る。指導する教員は活動の意味,ねらいをしっかりと見つめ,同じ活動を行ったとしても,他の教科と教科「情報」の両方を意識して指導することが必要である。教科「情報」の授業が,他の教員に混乱しているように見えると,教科「情報」不要論につながってしまうことも考えられる。
もちろん,現在行われている実践に問題が無いわけではない。最近私が関わった教科「情報」の研修で参加者に聞いた実施状況を見ると,学校による温度差はかなり大きい。また,教科「情報」担当者の多くが15日間の研修を受けただけで,未だ教科「情報」で何を教えるのかが理解できないまま教壇に立っているという状況も見られる。アプリケーションソフトの操作指導にとどまっている例や教科書を読んでいくだけの授業になっている学校も多い。このような状況では,教科「情報」不要論が出てきても仕方が無いのかもしれない。
都道府県によって異なるが,教科「情報」が専任で教員配置されている場合と他教科との併任で配置されている場合がある。専任の場合も,1学年しか開講されていないことから,かなりの規模の学校でも一人配置で,授業準備,指導評価などがかなりの負担になったり,指導方法などについて相談する相手がいないで一人で悩んだりしているケースが多い。併任の場合は,どうしても副次的な教科となってしまい,教材研究なども不十分なまま授業に向かっているケースもある。授業を担当する先生方の負担をどのように減らし,よりよい授業を考える時間を確保するか。難しいが,常に考えていかなければならないことであろう。
教科「情報」の授業研究も改善のための重要な手段であろう。教科「情報」を担当する先生方の不安を聞くと,自分の経験したことの無い授業のため,どのように実施して良いかわからない,自分の指導方法でよいのか自信がないといった話が出てくる。いろいろな先生の授業設計,実施の悩みをネット上で共有し,改善方法を見出していく活動,指導事例を蓄積する活動,学校を超えて授業研究を行っている「授業キャラバン」の取り組みなども出てきている。また,授業設計にとどまらず,教師の意図,それを授業においてどのように反映させているかを多様な視点から検討する授業カンファレンスなどにも今後取り組んでいく必要があろう。
教育の情報化,情報教育,教科「情報」と,様々な動きが一気に教育現場に押し寄せてきている。平成10年に出された現行の学習指導要領もすでに7年を経過し,改訂作業が始まっている。文部科学省のホームページの中央審議会の議事録にあるスケジュールでは,今年度中にはある程度の方針が固まりそうである。
教科書も今年度改訂があり,内容も一部更新されている。さらに,2007年度から使用される教科書はすでに検定作業に入っている。教科「情報」の内容については,様々なところで議論が行われている。センター試験への導入は依然検討中であるが,一部大学では2次試験科目として実施も始まった。いくつかの県では,実施科目のAからB,Cへの移行が始まっている。中学校までの情報教育の実践も成果を生み始め,家庭でのネットワーク利用も広がる中,教科「情報」では,何を教えるのかを改めて考え直す時期に入ってきているのではないだろうか。 |
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4 総合的な教科としての「情報」 |
学習指導要領の「各科目にわたる指導計画の作成と内容の取扱い」において,「情報科での学習が他の各教科・科目等の学習に役立つよう,他の各教科・科目等との連携を図ること。」という事項が明記されている。ここに書かれている「情報科での学習」が何を意味するかを十分に考えることが必要である。
「情報科での学習」をコンピュータの操作を学ぶことと捉え,他の教科でコンピュータを利用する場合に役立つようにすることと考えるだけでは不十分であることは,これまでの議論の通りである。「情報科での学習」は,考え方を学ぶことが最大の目標である。様々な教科の学習で,どのように考えれば良いかを考えるための基礎となる学びを意味していると考えるべきであろう。教科「情報」は内容知ではなく方法知を学ぶ教科でもある。情報メディアによって,人間の記憶,演算能力は著しく低下してきている。コンピュータは人間のこれらの機能を支援するために生まれてきたシステムであり,その本来の目的は達成されている。しかしながら,コンピュータを作り出したのは人間であり,コンピュータをより進化させていくのも人間である。人間の重要な機能を乗っ取られないためにも,少なくとも記憶,演算の方法,原理について理解しておくことが必要であろう。 |
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5 「考えないひと」を育てないために |
先日,学生たちと車で長野の菅平,峰の原高原に合宿に出かけた。車5台に分乗して,高速道路を走り,目的地に向かうのであるが,幹事からは,インターネットで探して印刷したのであろう地図と宿泊するペンションの名前を書いたメモをもらったのみであった。走行距離も長いので,途中で休憩したり,時間的にも途中で食事を取ったりする必要もありそうである。しかしながら,そのようなことは何も書いていなかった。
ちょっと心配になり,幹事をしている学生に聞くと,「携帯があるから,大丈夫」という答えが返ってきた。「大丈夫」と繰り返す学生を強引に説得し,とりあえず中間チェックポイントとしてサービスエリアをひとつ決め,そこに一度集合することにして出発した。案の定,途中のジャンクションで道を間違える車が出てきたが,とりあえずは無事目的地に到着できた。
問題は到着して発生した。宿泊したペンション近辺はちょうど谷間にあることもあり,携帯電話の電波がほとんど届かないエリアであった。とたんに彼らの活動は混乱した。普段は当たり前に連絡手段として利用できる携帯電話が全く役に立たなくなってしまい,プログラムの進行が非常にぎくしゃくしたものになってしまった。
その原因は段取りの悪さにある。どこに何時といった,当たり前のことを決めて行動することをすっかり忘れてしまっているのであろう。それぞれが好きなことをやり始めたとたん,連絡が付かなくなって統制が取れなくなってしまった。幹事は予定の時刻が過ぎても全員が集まらず,次のプログラムに進めなくて困り果てている。携帯電話が身近なものになる前は当たり前だったことが,今では当たり前で無くなっているのであろう。もちろん小,中,高等学校時代には,時間と場所をきちんと決めて行動することは当たり前だったに違いない。でも,今の学生たちの生活の中では携帯電話に依存した行動を知らぬ間に行うようになり,せっかく身に付けた経験も生きては働かなかったようである。
海外に学生を連れて行ったときも,同じような行動が見られた。もちろん海外で使える携帯電話も出てきたので,これからは大丈夫かもしれないが。
霊長類研究者の正高信男は,著書「考えない人」で,これからの人間像を「ケータイ主義的人間」と表現している。ケータイの進化によって,記憶,検索といった煩わしい知的作業はケータイに委ねられ,人間は脳の外部化に成功したが,それによって実現したのは思考力の衰退であると述べられている。情報メディアは人間の能力を拡張するものではなく,人間を退化させるものとしてしか機能していないのではないか。
なぜ,このようなことが起きるかは,これまで述べてきたように,情報メディアの仕組みや役割,その効果的な利用方法をきちんと理解していないからであろう。
教科「情報」での指導が,生徒の人間としての機能を退化させるものになってしまっては大変である。教科「情報」がより発展していくためにも,今が正念場である。現在行っている授業を今一度見直し,教科「情報」の授業のあるべき姿を考えてみてはいかがであろうか。 |
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